2017年2月7日火曜日

今月のみことば


「罪からくる報酬は(永遠)死でです。しかし、神の下さる賜物は、私たちのキリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)

吉田兼好の書いた『徒然草』に「賀茂の競べ馬(くらべうま)」という興味深い文章がある。◆ある日、名物の競べ馬を見に行った兼好法師がふと見ると、(せんだん)の木に登り、つめかけた群衆をよそに、特等席を得たかのように、木のまたに腰を掛けて見物している法師がいた。ところが、木につかまったまま、すっかり眠りこけてしまい、今にも落ちそうになって目を覚ますということを繰り返していた。あぶなっかしくて見ていられないほどである。◆人々は彼を嘲笑し、「なんと愚かなやつだ。あんなに危険な枝の上で、よくも安心して眠れるものだ」と言っていたが、それを聞いて兼好は次のようにつぶやいた。「我らが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、もの見て日を暮らす、愚かなる事はなほまさりたるものを(私たちが死ぬことになるのは、今すぐかもしれない。それを忘れて、このように見物して日を過ごしている愚かさは、あの法師以上だ」◆とても七百年前の文章とは思えないほど、卑近な話である。しかし、兼好法師とても、それではどうしたらよいのか、という答えは示していない。いつ訪れるかわからない死は永遠の世界への入り口である。私たちは、この永遠の世界があることを忘れ、わずか数十年の人生をできるだけ楽しく生きようとし、自分がいつか死ぬ存在であることに目を留めない。そして「競べ馬」や、仕事、ロマンス、趣味を生きがいとする。◆それ自身は決して悪いことではない。しかし、もっと大切なことは、死が訪れる前に、罪を悔い改め、イエス・キリストを通して永遠のいのちにあずかることである。なぜなら「我らが生死の到来、ただ今にもやあらん」からである。◆この永遠の救いに入ることと比べれば、この世で困難、損失、病気、災害に遭ったとしても、それを損失と呼ぶことは出来ない。むしろそれらによっていのちのはかなさに気づかされ、神のと和解に至るとするなら、それこそが本当の幸ではないだろうか。
      長野キリスト集会 二月号月報より

追記
久しぶりの原稿を見ながらは千鳥指以上には迷走してしまいました。細かくびっしりということもありで…。