2017年3月31日金曜日

手紙


Hさま

土曜日には短い時間でしたが楽しいひと時を過ごすことが出来てうれしかったです。ブランクがあるので会話に入れない部分もありましたが点が線となってつながる部分もありました。Sさんが「もう亡くなったけどテツオくん近くに住んでいたの、テツオくん知ってる?」と聞かれて、首を横に振ったのですが思い巡らしながら学校の近くいた男の子がいた「ヒラヤマテツオ?」と思い出し、そう言えば卒業前に菅谷の中学校に4校の生徒が集まった時、帰りに石川小学校の連中と罵り合っていて私がグランドの中に入って行ったら後ろから羽交い締めにされて倒され弁当箱のようなものでぼこぼこ殴られたときに彼が助けてくれたことを思い出しました。元気のいいのはここまででそれ以降「ショウシンモノノS」で通っています。
後日談があってその羽交い締めした男の子とわたしの父親はいとこでお互い同級生がいることを知っていましたから中学に入って「お前だったのか」と彼が笑いながら声をかけて来ました。そう言えば彼は下石川、あなたのいとこのY子さんとは同じ集落では?付け加えれば彼女のおねいさんとおふくろの実家の従兄が結婚していました。振り返っても見えない遥か古の出来事です。それでも思い出せればいい方です。余談でした。
空白の部分があっても皆さんのお話しを聞いているだけでも充分楽しかったですよ。

新宿、有楽町、銀座と雑踏?の中を歩いていますとなぜかホッとします。丁度、中央通りが歩行者に解放されているのを見て、秋葉原に勤めていたころのことを思い出し懐かしさを覚えました。芸術には縁のない者で「絵画は目で見てよかった音楽は耳で聞いてよかった」が基準ですから知れています。皆さんの絵を観ながら直接描かれたものには味わいがあるなぁと、そして、もう皆さんは趣味の域を超えているんだなぁと思わされました。無芸のわびしさを実感させられたひと時でもあります。一つ「無題」はわかりませんでしたが…。
Kちゃんはカメラマンの目線で観ているのを感じて「そういう目線もあるのか俺は単純だなぁ」なんて思いながら観ていました(見ではなくこの字で観ていましたからね)。当たり前のことなのですが絵を描くとはその人の個性が出るものなのだなぁと初めて実感しました。だから同じものを描いても人によって違うものが出来上がる。こういうこともあるからいいのかなぁなんてひとり呟いて観ていました。それと描く素材を探すのも大変なんですね。東京にも人を和ませる雲があるとは知りませんでした?

今回でおやめになるとか2年後は一つ足せば80です。半世紀前後やっているのでしょう。継続するということは好きな事でもしんどいことも多々ありますでしょう。でも無理のない範囲で頑張ってほしいなぁと思います。後期高齢者になっても頑張りましょうと人には言えるのですが自分には聞く耳は…。

東京には年に二三回は行っていますが今回のようにトンボ返りが多く、時間が有ったらあそこにもここにもとの思いがあります。しかし、いつもこんな調子で近くに行っても素通りしてしまいます。今回も然りで秋葉原も万世橋と末広町にある店に寄りたかったのですが末広町はあきらめて息子のところへ、孫を数秒抱いて駅へそして新宿へ、時間がないので西口の地下の立食いカレーを食べてバスタへ、ものの何分もしないうちにバスが来ました。ゆっくりできたのはバスに乗ってからでした。でもこんなせわしないのが生きている実感がして好きなんです。
諏訪に着いて、インターの近くの川の両岸の土手が通勤道路と言われている車専用の道路になっています。普段は切れ目なく車が走っているのですが9:30過ぎだというのに前にも後にも車の灯りは見えず「地元に帰ってきたなぁ」を実感させられました。山に囲まれ山梨、塩尻、上田方面に行くには千㍍の峠を超えなければなりません。ある種の閉塞感があります。それに刺激も少なく、東京の繁華街を歩くだけでも開放感があり、誘われて上京できるとなると内心ルンルン気分になります。家内には「小学校のミニ同級会があるって、T(息子)にも届けるものがあるからちょうどよかった」と少し気難しい顔して言うのに演技が要ります。いつかゆっくりと時間を取って上京したいなとの思いはいつもあります。何時もパスしている行きたいところや友人に、そして皆さんとランチを食べながらダべリングをとの思いもあり、Yさんは働いていますが多摩から新宿へは同じ京王線で、と思いはいくらでも膨らんでいきます。

小学校は三校に分かれ、中学も卒業して就職で東京に出ました。それで田舎も人も切ってしまいました。また、そういうものだと思っていましたから三校に分かれた小学校の人たちが集まっているなどとは想像もつきませんでした。二十代のころたまたま田舎に帰った時に新発田で小学校の同級会があったのに誘われて兄に促されて出席しましたがノリさんと話をしたことくらいしか記憶になく誰が出席していたかも覚えていません。それほど田舎に対してはアンチだったのです。上京している人たちの中学の同級会にも都合のつかないこともありましたが出ていませんでした。コンスタントに出るようになったのは五十代になってからです。そしてHくんの家に寄るようになったのも月岡での同級会の帰りに寄って以来です。いつでしたか話をしている時、シンゴくんが亡くなったことを言われ、高校で一緒に勉強した仲だったのでショックだったと言われました。(Hくんは心臓の弁幕が弱っていたようで元気ではなかった。今は人工弁をつけていると思いますから健康は大分回復したのではないかと思います。)正直シンゴくんらには小学校に入ったばかりの時に軽いいじめに遭っていましたからいつか仕返しをと思いながらそのチャンスもなく卒業してしまいました。ですから彼らに対していい思いは持っていませんでした。「仲が良かった」と聞いた時、半世紀以上拘っていた俺は何なのだと思わされ、バカみたいな自分の姿に目からうろこではないですがその拘りがスッとなくなりました。そして田舎に対する拘りも…。
いつかHくんたちにはお礼を言いたいと思っています。その為だけではないですがもう一田舎に帰って心のけじめをつけたいなぁとの思いがあります。
このミニクラス会にもHくんがあなたに私にも案内したらと言われて案内を送ってくださったそうですね。あなたが嫌だと思って出さなかったら今の繋がりはありませんでした。そういう意味で皆さんの好意で繋がり、拘りが消えていったことを思うと感謝に絶えません。末席に連なり、(6人しかいないと上席も末席もないですね)皆さんのお話を伺いながら歌を忘れたカナリヤが歌を思い出すように小学校の頃を思い巡らしていましたが空白が多すぎて…。
人生のカウントダウンに近づいてようやく人並みの仲間入りは遅すぎましたがそれでも私にはうれしいことです。それは中学もそうですが私の努力ではなく皆さんの好意がもたらしてくださったものであるからです。
ハガキでちょっとお礼をとの思いでペンをとりましたが自分でも読めない達筆と文が頭に浮かばず、パソコンですと文章を切ったり張ったりできますからそれに慣れてしまいつい楽な方に行ってしまいました。味わいのない活字で申し訳ありませんが思うがままに書いてしまいました。インターネットでブログを書いていまして何か発信というのではなく、お金のかからないボケ防止のためなのです。最近は文章が浮かばなくて歳を実感させられています。上京するのも元気のしるしではなく、ボケ防止の一環でして、懐かしい皆さんのお顔とお話しで一石二鳥の思いでおります。しかし、認知症の人って割と体は丈夫なんだよね。少し恐怖!
今回皆さんを見て二年おきでも後二三回は大丈夫そうだなぁなんて思いました。そう言ってももう後期高齢者のおじいさんとおばあさん自覚しながら元気で過ごしましょう。
皆さんにそして「砂」の会の方々に感謝しながらいつかまたお会いする日を期待して…。お礼まで。