2017年8月24日木曜日

目を閉じるということ


中学生の時に野球をやっていて、守備の時にボールが脇だとスムースに取れたが真正面だとおもわず目を閉じて先生に叱られていた。ドラマでもボクシングで目を閉じると余計打たれるから閉じてはいけないとそのようなセリフがあった。正直、物が真正面に来ると誰でも危ないと思って目を閉じるのが普通ではないだろうか。その度合は人によって違うだろうが。

目を閉じるのは怖いだけでなく、現実を逃避することにもそのような形がある。見えないこと或いは隠されていることで現実の問題を避けているということもある。

心配性の人はあれこれと心配しているのを時折見かける。「転ばぬ先の杖」的な発想は分かるがそんなに心配してもと思わされる時もある。山下清的にことを単純化しないと理解できない者にとってはその時来たら考えればと思うが先々を考える人には「お前アホカ」的な顔される。そんな時は「俺はアホダゼ」と心のうちで叫んでいる。しかし概してそのことよりも別な問題が持ち上がることが多々ある。そんなことを見ていると「下手の考え休むに似たり」と更に考えない。

キリスト者は世の中或いは世界の動きを見て終末或いは主の再臨のことを思い浮かべる人は少なくないと思う。身近な人にもそのような人がいる。

ニュースにならないがネットを見ると原発のメルトダウンは深刻らしい。もしかしたらチェルノブイリの比ではないかもしれない。実際起きるかどうかわからないが人々に隠されて、人々が目を閉じていることは怖いと思う。形は違っていてもこのようなことは歴史を振り返ればいくらでもある。為政者が目の前の利益を求めているか将来を見通しているかで国民が大きな犠牲をこうむるか利益を受けると大きく変わっていくであろう。
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