2017年11月4日土曜日

聖書雑感


john 14: 1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。


心騒がすことと神を信じ、わたしを信じることが対極になっている。

心騒がすとは不安があるからだろう。不安或いは平安は物事の問題あるなしではなく心の状態をいう言葉ではないかなと思う。

自立という言葉がある。赤ちゃんの時は100%他者に依存しなければ生きていけない。大きくなるにつれ、その依存度は減ってくる。そして社会人となればもう親に依存しなくとも生きていける。(昔はこのことばも通用したけど現代は親離れ〔子離れ〕できない親子が増えているようではあるが)。これは誰もが求める姿だと思う。

しかし、この自立はある意味で神からの自立につながらないだろうかと思う。自分で生きていけるということは他者を必要としない。いい意味でも悪い意味でも利用することはあってもである。それは、神を必要としないということにつながらないだろうか。

弟子たちの姿を福音書と使徒の働きを見比べると大分様子が違う。イエス様ペテロに、

john:13:38
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。

と言われ、事実そうなった。弱さの典型である。しかし、使徒の働きではペテロをはじめ他の者たちは、


acts: 5:29
「人に従うより、神に従うべきです。・・・」

と議会で大胆に語っている。もう人を恐れていない姿を見る。

ガリラヤ伝道の最後の方では、


luke: 9:46
さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
弟子たちはイエス様が地上にいる間はこの域からは出てはいないであろうと思う。実に人間臭いのである。

john:13: 1
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

と弟子たちの足を洗うという行為をなされた。そして互いに足を洗い合うようにと勧めている。多分この時弟子たちはイエス様の言われたことを理解していなかったと思う。


john:17:11
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

弟子たちは復活のイエス様に会うまではいい意味でも悪い意味でも人間味に溢れていたことだろうと思う。不安や恐れの真っただ中にあったことだろうと想像に難くない。だからイエス様「神を信じ、わたしを信じなさい」と言われた。これが心騒がす時の唯一の解決の道なのである。問題のあるなしが問題ではなく、信じるか否かが問題なのである。「心騒がされる時に、イエス様は「わたしを信じなさい」と語りかけてくださり、その言葉に平安を得ることができる。この繰り返しが我が信仰である。