2017年11月8日水曜日

ゴミ拾いに思うこと


速歩で湖畔を歩いているとゴミが少なくなったように思える。それでもUターンして帰りにゴミを拾っているがコンビニの袋では小さくてスーパーの袋が丁度いいことが多い。しかし、岸辺にはプラスチックのごみやペットボトルが散見される。気になっていたのだが「思いは強く腰は重く」で、ちっとも動かなかったが昨日今日と義姉の退院のことで家内が病院に行って夜に帰ってくるのでゴミ拾いに出かけてきた。漕艇場のスタート地点の100mばかりのところだったが45ℓの袋がいっぱいになってしまった。そこはそれほどでもと思っていたのに大きいゴミも幾つかあった所為かもしれない。空気の抜けたドッジボール、白いプラスチックの箱、5-60センチはあるだろうか骨だけになった魚等々である。

拾っても見た目はきれいになっているわけではない。気になって拾っているがどこか自己満足的なのかなと思うことがある。しかし、気になって拾いるならと思ってやっている事は他につながるだろうなとも思っている。効率第一主義の現代に於いて効果が全く見られないことはそれに背を向けているようなものだ。しかし、この無駄なような意味のないような行為はキリストに通じるものがあるのかなとも思っている。イエス様は誰も目を向けていないところに目を向けている姿を垣間見る。救いの道を提示したのに多くの人たちは見向きもしない。キリスト者と言われる人の中にもそうなのである。こんなところに「普遍的真理」があるなどとほざいて次はいつ行くのやら…。