2024年4月9日火曜日

聖書雑感

  ヨハネの福音書8章1節~11節より
 聖句が長いので要約しますと、
 ここはイエスさまが宮で民衆に教え始めていた時、イエスさまを貶めようとして律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえた女を連れて来て、律法では云々、しかしあなたならどうするかと問う。繰りかえし問うのでイエスさまは「罪なき者が石もて打て」と、そして一人去り二人去りして最後は女だけが残った。イエスさま曰く「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません」と。この個所は古い写本には載っていないと注釈がついている。どこかルカ的な感じがする。
 罪を犯したといえ衆人の真中に置く律法学者とパリサイ人の姿は利害得失だけで動いている自民党の裏金問題とダブる。個人を大切にするイエスさまとは対照的である。
 律法を金科玉条のように守ろうとしていのちを失ってしまった律法学者やパリサイ人、しかし一人去り二人去って行くところに彼らの良心がまだ残っているように思える。でもイエスさまのもとに留まるという大切なことを失ってしまったとも言える。
 衆人の真中におかれ恥と屈辱を受けたであろう女はだれもいなくなったのでこれ幸いと去ることが出来た。しかしイエスさまのもとに留まっていた。そして「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」と、イエスさまから幸いなことばをいただいた。
 この個所からたとえ聖書の言葉と言え、人を生かすものとならなければ律法学者やパリサイ人と同じではないだろうか。たとえ大きな罪を犯した者でもイエスさまのもとに留まっているなら幸いなことばをいただくことが出来る。人を生かすいのちのことばをである。