先日、一冊の本を読み、考えさせられた。戦時下で治安維持法違反で刑務所に入った牧師の物語である。まさに隣町の教会の牧師(当時)の話だった。昔の写真に中田重冶が写っているそうだからホーリネス系?詳しくは知らないが戦中に多くの牧師が逮捕され、多くの牧師が獄中で亡くなったと聞いている。
この本を読み終えた時、「青銅の基督」の本を思い出した。芸術と信仰、これが変に絡んで信仰もない一人の芸術家が基督者と誤解されて殺される。殺された彼を真に理解していたのは遊女だったというのも面白い。
思っていることを書くと・・・。何時の時代も善意の人の集まりがあればそれを逆手にとって利用する為政者の姿がある。過ぎ去ってみれば「何で、」と問いかけても答えが出ないようなことをその時は疑うこともなくやってしまう。ロマ書7章ではないが悪であることを知りながらそれしか出来ない人間の姿がそこにあるのだろうかなぁ。やるときは綺麗なオブラートに包んで本質が見えないようにしてやる。
今もこのようなものがあるような気がする。世の中は勿論のこと信仰の世界でもあるのではないだろうか。福音を語りながらもそこにあるのは自己実現が目的であったりして、その点イエス様はやることも言うこともストレートだ。だから殺された。変な読後感になってしまったが。
2009年12月12日土曜日
2009年12月11日金曜日
本を読んで
最近でもないが本を読むのが遅くなり、尚且つ残らなくなった。元々斜め読みタイプで読解力はすこぶる悪い。それでも時間がかかっても残ればいいのだがそれも難しい。それでもまぁ少しは考えさせられたり、教えられたりしているからそれを「良し」としなければならないだろう。そんな中で今日一冊の本を読み終えた。私の原点は「弱さと知識の無さ」であるべきことを確認させられた。充分ではないが教えられて感謝している。
「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」job:42: 3 ヨブの謙遜を見るが私にとってはことばそのものである。そして「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」 job:42: 6 とヨブのように言えないのが・・・。
「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」job:42: 3 ヨブの謙遜を見るが私にとってはことばそのものである。そして「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」 job:42: 6 とヨブのように言えないのが・・・。
2009年12月9日水曜日
ふっと考えたこと
よくアクセスしているブログに集会の建物に関することで、ある方の手紙を紹介されていた。集会場の色々な形態や事情があることを少し分かった。長野県にある集会も幾つも知っているわけではないが自前あり、定期的に長期間に亘って借りている所、わが集会のように公共の建物を2,3箇所確保して借りている所と色々ある。他もこの三つに準じているのではないかと思う。
10数年まえにオーム真理教が問題になって、宗教法人法の改正などが話題になっていた頃に当時弁護士で元最高裁長官の藤林益三さんが日経新聞にコラムを書いていた。宗教法人法の改正に着いて専門家の立場から書いていている。
最後に「かく言う私は内村鑑三の流れをくむいわゆる無教会主義キリスト者である。」という書き出しで「私たちには宗教法人法は無縁である。金もなければ施設も組織もないからである。日曜日には借り物の会場で同信の友が相寄り聖書を読み共に祈り、先輩が話し、後輩も語る。会場費としてわずかな金を入り口のかごに投じ、これで会場費や講壇の花代をまかなう。皆手弁当である。先輩が死去すれば後輩が我流で葬儀を執り行い、後輩が結婚することになると先輩がその司式をする。
私は昭和9年以来88歳の今日に至るまでに数十人の先輩を天に送り、数十組の結婚を司った。今も月一回は約一時間立って話をしている。こういうやり方もあるのである。だれも文句を言わず、不満があれば去ればよい。風通しはまことに良い。しかし教会のような施設もなく、専従者もいないから、宣教には不都合で、これが最大の悩みである。」と書いていた。
この最大の悩みを教会は解決しようとして努力しているのかなと思っている。しかし無教会は教会とは別の方法でこの世に対してアプローチしているのではないだろうかと思うときがある。教会はどちらかというと世の中のことには余り関心を示さないというよりそれが信仰的と捉えている。無教会は世に対して時には強烈なアプローチをする。そして批判するだけではなくその中に入っていって変えようとしている姿勢が見える。聖書の使信をどう伝えるか、その捉え方で集会場というものの位置づけが変わってくるのではないだろうか。
無教会の集会はそれ程知っているわけではないが会場を借りて集会を持っている集まりが多いのではないだろうか。今はどうか分からないが東京にある一つの集会は自前の集会場を持ち、8月に修養会を持って、そこでバプテスマと聖餐をやっているとそこに集う方から聞いたことがある。そこは宗教法人に入っているとも言っていた。私たちの集まりは「無教会でも右です。」と腰に手ぬぐいを引っ掛けている姿で笑って話されていたのが印象に残る。集会と同じ名前の書店を持ち、出版もされている方である。今は息子さんがあとを継いでいるようだが。
今はそれでも内村鑑三がこう言ったとか言われるが昔は無教会は「師と弟子」、「聖書の勉強だけ」と一刀両断だった。中を少し見ると確かに言われることも事実の所もあるがそれだけでなく伝道に熱心な集まりもある。個人の力の大きさかもしれないが学校を創ったりしているし、その広さは諸集会の比ではないと思っている。教会の自を是とし、他を否とする否定的発想はわが性格とマッチしてとても居心地がいいがそれが正しいかどうかは別であり、むしろ逆なのだろうと思った方が正解のような気がする。
10数年まえにオーム真理教が問題になって、宗教法人法の改正などが話題になっていた頃に当時弁護士で元最高裁長官の藤林益三さんが日経新聞にコラムを書いていた。宗教法人法の改正に着いて専門家の立場から書いていている。
最後に「かく言う私は内村鑑三の流れをくむいわゆる無教会主義キリスト者である。」という書き出しで「私たちには宗教法人法は無縁である。金もなければ施設も組織もないからである。日曜日には借り物の会場で同信の友が相寄り聖書を読み共に祈り、先輩が話し、後輩も語る。会場費としてわずかな金を入り口のかごに投じ、これで会場費や講壇の花代をまかなう。皆手弁当である。先輩が死去すれば後輩が我流で葬儀を執り行い、後輩が結婚することになると先輩がその司式をする。
私は昭和9年以来88歳の今日に至るまでに数十人の先輩を天に送り、数十組の結婚を司った。今も月一回は約一時間立って話をしている。こういうやり方もあるのである。だれも文句を言わず、不満があれば去ればよい。風通しはまことに良い。しかし教会のような施設もなく、専従者もいないから、宣教には不都合で、これが最大の悩みである。」と書いていた。
この最大の悩みを教会は解決しようとして努力しているのかなと思っている。しかし無教会は教会とは別の方法でこの世に対してアプローチしているのではないだろうかと思うときがある。教会はどちらかというと世の中のことには余り関心を示さないというよりそれが信仰的と捉えている。無教会は世に対して時には強烈なアプローチをする。そして批判するだけではなくその中に入っていって変えようとしている姿勢が見える。聖書の使信をどう伝えるか、その捉え方で集会場というものの位置づけが変わってくるのではないだろうか。
無教会の集会はそれ程知っているわけではないが会場を借りて集会を持っている集まりが多いのではないだろうか。今はどうか分からないが東京にある一つの集会は自前の集会場を持ち、8月に修養会を持って、そこでバプテスマと聖餐をやっているとそこに集う方から聞いたことがある。そこは宗教法人に入っているとも言っていた。私たちの集まりは「無教会でも右です。」と腰に手ぬぐいを引っ掛けている姿で笑って話されていたのが印象に残る。集会と同じ名前の書店を持ち、出版もされている方である。今は息子さんがあとを継いでいるようだが。
今はそれでも内村鑑三がこう言ったとか言われるが昔は無教会は「師と弟子」、「聖書の勉強だけ」と一刀両断だった。中を少し見ると確かに言われることも事実の所もあるがそれだけでなく伝道に熱心な集まりもある。個人の力の大きさかもしれないが学校を創ったりしているし、その広さは諸集会の比ではないと思っている。教会の自を是とし、他を否とする否定的発想はわが性格とマッチしてとても居心地がいいがそれが正しいかどうかは別であり、むしろ逆なのだろうと思った方が正解のような気がする。
2009年12月6日日曜日
伝える
いつも話終えて思うことは伝えると言うことの難しさを覚える。と書けば格好いいが様は話が下手だということだ。それと自分ではよく分かっていると思っていることが実はよく分かっていないのではないかという思いもある。自分が分かっていても人に伝えるということはさらによく分かっていないと伝えられないということがある。また「裁きを語って救いを語る。」と言うことに上沼さんは異を唱えていたが同感しているところがあるが集会はそれを強調しているから難しい。それと年末に繁華街でスピーカーで「滅びるからイエスを信じて救われよ」と流し、問いかけても何も答えてくれないあのグループのことがすぐ思い出してしまう。集会の流れは流れとして、今生きているこの時にイエス様と共に歩む素晴らしさを自ら経験し伝えたいものである。そこに信仰、信頼が大切であることを知っていてもそれが・・・。ここに来て色々問われるがそのことに答えていけたらと思う。
2009年12月5日土曜日
2009年12月1日火曜日
終末論
以前、もう20年前かもっと前かな関西のほうで「すぐ主が来る」という終末論が盛んだったらしい。それで自分の人生をそれに合わせて、生活設計していたら主は来なかった。結果として深く傷ついた人たちがいたことを何かで聞いた。
最近またそのようなことが起きているのではないだろうかと思うことがある。勿論事実であるかないかはわからない。ただ何事も複眼的な目が必要ではないだろうかと思う。「あなたも行って同じようにしなさい。」とイエス様は言われた。神の国はこのようにして地上に出来るのではないかと思っている。
最近またそのようなことが起きているのではないだろうかと思うことがある。勿論事実であるかないかはわからない。ただ何事も複眼的な目が必要ではないだろうかと思う。「あなたも行って同じようにしなさい。」とイエス様は言われた。神の国はこのようにして地上に出来るのではないかと思っている。
2009年11月28日土曜日
日本語
以前いた集会に神学大学で勉強された兄弟がいて、学園紛争の世代だからちゃんと卒業出来たのか定かではない。北森嘉蔵が先生だったそうで「聖書百話」の本は分かりやすくて良かったと言ったら、何年も使ったような同じテキストで講義をして話はつまらなかったと一刀両断。良く知らないが日基等の牧師の名前を言って、一緒に勉強した仲だといっていた。マンションの一部屋は壁一面本だらけ、それも難しくて高い本ばかり、TVなしで時間があったら本を読むといっていた。ギリシャ語もへブル語も堪能で、勧められたが語学は苦手でことわった。若い人の中に興味を持っていた人たちがいたがどうなっただろう。
どちらかというと聖書は学問的に捉えることが主体で福音は違う次元のようなことを言っていたように記憶している。冗談に「ここは逐語霊感説をとっているところだからあなたはここにいるのは可笑しいんじゃない」といって冷やかしていた。彼は「私はかまわないのだ」といって笑っていた。集会の鷹揚さが気に入っているかのようだった。俗にいう神学を勉強していたといっていいのだろう。ここで神学論争をする積もりもないしあそこで出来る基盤もないことを彼は良く知っていた。
神学とは彼が勉強してきたようなことを言うのではないだろうかと自分では思っている。しかし聖書を極めようとするときに(勿論極められないが)そこにはすでに神学といえるものがあるのではないかなと思う。このような集まりでは「神学」という言葉はアレルギーになっているように思う。神学も信仰よりも、より学問的なものに重点を置いているものから深く信仰に根ざしたものとその幅は大きいのではないだろうか。「神学」という言葉でひとくくりにしてほしくない。
「宗教」という言葉もそうだし「キリスト教」という言葉も然りである。ただ言葉で判断するのではなく、相手が言っている話の前後を踏まえて判断してほしいと思う。神学を批判するときに言っていることも然りだが「人」の資質のようなものが問題になっていないだろうかと思うことがある。どちらにしても細かいし、日本語の言葉のあいまいさもこうなるのだろう。それと単純明快に言えば判りやすいから断言してしまうから聞く側にも問題があろう。わかりやすいがホント?と思うときも無きにしも非ずだからなぁ。でもそんな単純なものでもないのだろうとも思うが。
どちらかというと聖書は学問的に捉えることが主体で福音は違う次元のようなことを言っていたように記憶している。冗談に「ここは逐語霊感説をとっているところだからあなたはここにいるのは可笑しいんじゃない」といって冷やかしていた。彼は「私はかまわないのだ」といって笑っていた。集会の鷹揚さが気に入っているかのようだった。俗にいう神学を勉強していたといっていいのだろう。ここで神学論争をする積もりもないしあそこで出来る基盤もないことを彼は良く知っていた。
神学とは彼が勉強してきたようなことを言うのではないだろうかと自分では思っている。しかし聖書を極めようとするときに(勿論極められないが)そこにはすでに神学といえるものがあるのではないかなと思う。このような集まりでは「神学」という言葉はアレルギーになっているように思う。神学も信仰よりも、より学問的なものに重点を置いているものから深く信仰に根ざしたものとその幅は大きいのではないだろうか。「神学」という言葉でひとくくりにしてほしくない。
「宗教」という言葉もそうだし「キリスト教」という言葉も然りである。ただ言葉で判断するのではなく、相手が言っている話の前後を踏まえて判断してほしいと思う。神学を批判するときに言っていることも然りだが「人」の資質のようなものが問題になっていないだろうかと思うことがある。どちらにしても細かいし、日本語の言葉のあいまいさもこうなるのだろう。それと単純明快に言えば判りやすいから断言してしまうから聞く側にも問題があろう。わかりやすいがホント?と思うときも無きにしも非ずだからなぁ。でもそんな単純なものでもないのだろうとも思うが。
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