今日マラキ書の残りを読んで今年の聖書通読が終わった。正直なところ字面だけを追ったり、端折ったりと内容的には褒められるものではないが取りあえず終わった。直接ではないがそんな読み方に何の意味があるのかと言われたこともあった。そんなの判るかと内心思った。でもこれからは聖書の読み方を考え直してみるいい機会であるかもしれない。
いま、デボーションでテモテを読んでいて、1Tim6:15-16にこのように書いてある。
「…神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」
賛歌として何も注釈をつける必要のない個所である。
そして通読最後の小預言書を読んでいて、特に好きなホセア書の中にこのような言葉がある。
「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」hos 11: 4
反逆の民イスラエルに対して怒りながら、放蕩息子に対する親のような苦悩が書かれている。テモテ書からは人間が入る余地はないがホセア書は実感として味わうことが出来る。親不孝をしてきた者であり、主に対しても真実でない者であるから、なんとも言えない慰めの言葉である。
歌を忘れたカナリヤでも歌を思い出そうとしている。私も主に対して応答しよう。
2009年11月15日日曜日
2009年11月13日金曜日
エゼキエルの神殿
聖書通読でエゼキエル書を読んでいる。イザヤ書、エレミヤ書と読んでいると各々の個性が見えて面白い。言葉としてはイザヤ書が好きだが人間的にはエレミヤに共感を覚える。同じ大預言書といわれながらも置かれている状況とその人なりによってこうも違うものかと思うと面白い。そして読み手の側に与える共感は人によって違うのだろう。
エゼキエル書は前の二書と違ったものがあるので面白い。37章や43章を読むとワクワクする。しかし40章からの神殿に関しては読んだだけでは判らない。建築家は図面を見て、建物をイメージできるといわれるが数字が羅列されているこの箇所を読んでいて、実際の建物などはイメージできない。元々こういうのに弱かったが年と共にさらに駄目になっているのを実感する。インターネットで見つけて、あぁこういうことかと少し理解ができた。それだけでも感謝かもしれない。よく言われる「今朝何を食べたかを忘れても今朝食べたことを忘れることは問題だと」、そこまで行っていないからそれはそれでいいのだろう。
間もなく聖書通読は終わるが今回は読みづらさを感じた。設備管理の仕事をしていた時は半地下のほとんど人が来ない所でひたすら聖書を読み、3ヶ月で読み終えたのを懐かしく思う。仕事に行っているのか聖書を読みに行っているのか判らないないなぁと思った時でもある。10年も前の話だが今とは大分趣が違う。これからはさらに加速していくことだろう。難しいことは分からんから信じたはかりの時のイエス様に感動したようなことがそこから見えるかもしれない。違った形で聖書が面白くなりそうだとなるとよいのだが。
エゼキエル書は前の二書と違ったものがあるので面白い。37章や43章を読むとワクワクする。しかし40章からの神殿に関しては読んだだけでは判らない。建築家は図面を見て、建物をイメージできるといわれるが数字が羅列されているこの箇所を読んでいて、実際の建物などはイメージできない。元々こういうのに弱かったが年と共にさらに駄目になっているのを実感する。インターネットで見つけて、あぁこういうことかと少し理解ができた。それだけでも感謝かもしれない。よく言われる「今朝何を食べたかを忘れても今朝食べたことを忘れることは問題だと」、そこまで行っていないからそれはそれでいいのだろう。
間もなく聖書通読は終わるが今回は読みづらさを感じた。設備管理の仕事をしていた時は半地下のほとんど人が来ない所でひたすら聖書を読み、3ヶ月で読み終えたのを懐かしく思う。仕事に行っているのか聖書を読みに行っているのか判らないないなぁと思った時でもある。10年も前の話だが今とは大分趣が違う。これからはさらに加速していくことだろう。難しいことは分からんから信じたはかりの時のイエス様に感動したようなことがそこから見えるかもしれない。違った形で聖書が面白くなりそうだとなるとよいのだが。
2009年11月7日土曜日
読み終えて
「人生を導く5つの目的」をノートを取りながら8月22日から読み始めて10月30日に読み終えた。40章の40日、一日一章のつもりが大分延びてしまった。それよりどんどん前にやっていたことが忘れていく、悲しんでもしょうがないので淡々とそれを受け止めている。目次のタイトルを見て、そしてノートに何を書いたかを見ては思い返している。元々物覚えが悪い上に歳が加わっているからどうしょうもない。
内容は6つに分かれていて、5つの目的が書かれている。
私は何のために生きているのか。
第1の目的 あなたは神の喜びのために造られた。
第2の目的 あなたは神の家族となるために造られた。
第3の目的 あなたはキリストのようになるために造られた。
第4の目的 あなたは神に仕えるために造られた。
第5の目的 あなたは使命のために造られた。
個々の目的にも項目別に書いてあるから判りやすいし難しくない。これは一人でやるのではなく少人数のグループでやるようになっているようだ。話し合いながらすると効率が上がると思う。今度誰かとやるときのたたき台には良かったかもしれない。
内容は6つに分かれていて、5つの目的が書かれている。
私は何のために生きているのか。
第1の目的 あなたは神の喜びのために造られた。
第2の目的 あなたは神の家族となるために造られた。
第3の目的 あなたはキリストのようになるために造られた。
第4の目的 あなたは神に仕えるために造られた。
第5の目的 あなたは使命のために造られた。
個々の目的にも項目別に書いてあるから判りやすいし難しくない。これは一人でやるのではなく少人数のグループでやるようになっているようだ。話し合いながらすると効率が上がると思う。今度誰かとやるときのたたき台には良かったかもしれない。
2009年11月5日木曜日
処する術
白川勝彦さんは『永田町徒然草」というブログを書いている。その中で「政権内部や民主党から伝わってくるニュースには、“それは良いぞ!!”という思われることが少ない。それより“あまりぞっとしないなぁー”と思われることが多いからだ。』と書いている。…それは、『彼らが“権力に処する術”を知らないからではないのか。 このヒントは、「“富に処する術”にある。この言葉もあまり聞き慣れないと思うが、私の造語ではない。かつて宮沢喜一氏が使った言葉である。宮沢氏は「私たち日本人は貧しさに耐え、これを見事に克服した。そして世界が驚嘆するような豊かな国となった。私たち日本人は、貧しさにどう対処したら良いかは知っている。しかし、自分たちが手にしている富にどう対処したら良いのか、必ずしも十分に知らないのではないか」という文脈の中で“富に処する術”という言葉を使ったのである。』と説明している。『それと民主党は長い間確かに“政権交代”を訴えてきた。そして念願の政権を手にした。政権を獲得した場合どういうことを行いたいか、それなりに勉強してきたようである。しかし、自公“合体”政権の権力について批判することと、実際に自分たちの権力をどう行使するのかは別の問題である。権力者は権力をどう行使するかも問われるが、権力を行使しないことにも責任を問われるのだ。要するに政権党はあらゆることに責任を問われるのである。政権党には、その覚悟が必要なのだ。』とも書いている。分かりやすい説明である。
自分のこととして振り返ってみるとかつていた集会は大勢信者がいた。週報を90枚刷っても無くなると聞いているから割り引いても7,80人の信者はいるのだろう。特別な責任を負わなければ集うだけでよい。そうすると諸々の要素はあるが集会を客観的に見てしまいがちになり、当然批判的な視点で見ることもある。引越す頃は、これは責任者に委ねられたもので私がどうこう言うべきものではないと思えるようになった。そうなるまでは大分時間がかかったように思う。責任を負わないと部分的なものしか見えないし、欠けている面が見えるということもある。事実、そういう話を色々「聞く」ということも多かった。
一つの群れを委ねられているということは、責任者の霊性と能力が問われる。問われても決断していかなければならない。決断したとしても具体的には難しい。論評は出来ないが、現にそれによってバプテスマを前に集会を去った方がおられる。そこには信仰の確信のようなものがあるのではないだろうかと思っている。諸集会にはオープンとクローズという水と油に等しいくらいに融和のできないものがあるように思う。そのオープンも集会にこだわっているのと教会からも学ぼうとしているのとあるように思える。そんな色々な集会があるからその人を受け入れてくれる集会があるだろうと思っている。
大分昔の話だが、すでに召されたN集会のS兄は「以前はここでパン裂きが出来たが今は・・・」とある大会のことを個人的に話してくれたことを思い出す。それだけ昔は集会は一つであったのだろう。それが年と共に多様化して、今はさらにとの思いがある。それはまた「一つになる」ということをさらに難しくしているように思う。個々の集会が独立したものとして尊重されていればそれはそれで素晴らしいと思うがそう単純ではないようだ。
話を戻して、10人に満たない小さな集会ではあるが白川さんが指摘する民主党の現実を今自分が経験しているのかなと思っている。スタンドで観戦していた者がグランドに降りてプレーするようなものである。色々な思いが去来するが何処でもいつでも教えられた所がスタートと思っているのでそれはそれでいいかなと思っている。
自分のこととして振り返ってみるとかつていた集会は大勢信者がいた。週報を90枚刷っても無くなると聞いているから割り引いても7,80人の信者はいるのだろう。特別な責任を負わなければ集うだけでよい。そうすると諸々の要素はあるが集会を客観的に見てしまいがちになり、当然批判的な視点で見ることもある。引越す頃は、これは責任者に委ねられたもので私がどうこう言うべきものではないと思えるようになった。そうなるまでは大分時間がかかったように思う。責任を負わないと部分的なものしか見えないし、欠けている面が見えるということもある。事実、そういう話を色々「聞く」ということも多かった。
一つの群れを委ねられているということは、責任者の霊性と能力が問われる。問われても決断していかなければならない。決断したとしても具体的には難しい。論評は出来ないが、現にそれによってバプテスマを前に集会を去った方がおられる。そこには信仰の確信のようなものがあるのではないだろうかと思っている。諸集会にはオープンとクローズという水と油に等しいくらいに融和のできないものがあるように思う。そのオープンも集会にこだわっているのと教会からも学ぼうとしているのとあるように思える。そんな色々な集会があるからその人を受け入れてくれる集会があるだろうと思っている。
大分昔の話だが、すでに召されたN集会のS兄は「以前はここでパン裂きが出来たが今は・・・」とある大会のことを個人的に話してくれたことを思い出す。それだけ昔は集会は一つであったのだろう。それが年と共に多様化して、今はさらにとの思いがある。それはまた「一つになる」ということをさらに難しくしているように思う。個々の集会が独立したものとして尊重されていればそれはそれで素晴らしいと思うがそう単純ではないようだ。
話を戻して、10人に満たない小さな集会ではあるが白川さんが指摘する民主党の現実を今自分が経験しているのかなと思っている。スタンドで観戦していた者がグランドに降りてプレーするようなものである。色々な思いが去来するが何処でもいつでも教えられた所がスタートと思っているのでそれはそれでいいかなと思っている。
2009年11月4日水曜日
その後
学び会の後、兄姉と少し交わって、豊科にある長野県立こども病院に向かう。そこには集会のO兄の奥さんが入院している。M集会のH兄姉はご夫婦で小児科の先生をしているという。そしてM兄はこども病院の小児科の先生であることを知る。大きい病院だから担当が違うとコミュニケーションはないみたいだ。でも何かあったら言って下さいと言われ、その旨彼女に伝える。
胎児の首の辺りに腫瘍が出来ている。12月末の出産予定だが帝王切開なか陣痛が起きるとアウトなので、早々に入院して様子を見るとのことだった。現におなかが張っていて、それを抑えるために常時腕から薬を入れていている。その格好でシャワーを浴びたりするそうだ。でも家にいるよりはるかに安全、安心である。子供さんのことが心配だったそうだが毎日電話で話をしていて、それ程心配ではないようだ。感謝である。保育園の年長組、大分聞き分けて来ているのだろう。精神的に不安定のような様子はないように見える。彼らを見ているとぎりぎりのところで守られているという感じがする。胎児がこれからどのようになるのか分からないがこれからも守られていくことを願う。彼女の救いと胎児の健康をこれからも祈っていこう。明るい彼女の顔を見て安心しながら。
胎児の首の辺りに腫瘍が出来ている。12月末の出産予定だが帝王切開なか陣痛が起きるとアウトなので、早々に入院して様子を見るとのことだった。現におなかが張っていて、それを抑えるために常時腕から薬を入れていている。その格好でシャワーを浴びたりするそうだ。でも家にいるよりはるかに安全、安心である。子供さんのことが心配だったそうだが毎日電話で話をしていて、それ程心配ではないようだ。感謝である。保育園の年長組、大分聞き分けて来ているのだろう。精神的に不安定のような様子はないように見える。彼らを見ているとぎりぎりのところで守られているという感じがする。胎児がこれからどのようになるのか分からないがこれからも守られていくことを願う。彼女の救いと胎児の健康をこれからも祈っていこう。明るい彼女の顔を見て安心しながら。
文化の日
小さいときは休日は数えるくらいしかなかったように記憶している。そんな中での「文化の日」は何か偉い人が表彰される日で、文化とは縁のない生活をしていた者には縁遠い存在だった。働くようになっても休みが増えてありがたい位であったが、勤めていた会社の社長が紫綬褒章を貰って、寮の食堂にTVを寄付してくれたので少し身近に感じたことを覚えている。しかし勲章を見せてもらったがあまり関心はなかった。
現在も相変わらずでそれ程関心はないが、その道で活躍された人たちであり、それなりに尊敬に値するものくらいに進歩した。そんな文化の日に昨年に引き続き伝道者のN兄の学び会がM集会に有って、集会の兄姉と集いメッセージを聞いてきた。一年ぶり、「礼拝」についてだった。
お話を聞きながら集会の聖書理解を改めて確認されたような気がする。そこには深い霊性と謙遜が求められるているようで自分にはないなと思った。そして思い出すのは聖歌総合版にも新しい礼拝賛美歌にもある「なおもみめぐみを」である。
1 なおも御恵みを なおも御救いを
なおもわがために みうせし主を知らん
(くりかえし)
なお深く主を なお深く主を
なおもわがために みうせし主を知らん
2 なおもみこころを なおも御救えを
なおもさやかに知らん 御霊なる神を
3 なおも深く主と なおも交わりて
なおもわれは聞かん 御声のある時
4 なおも御栄えの 富の豊かさを
なおも主の国の 来たるをわれ知らん
現在も相変わらずでそれ程関心はないが、その道で活躍された人たちであり、それなりに尊敬に値するものくらいに進歩した。そんな文化の日に昨年に引き続き伝道者のN兄の学び会がM集会に有って、集会の兄姉と集いメッセージを聞いてきた。一年ぶり、「礼拝」についてだった。
お話を聞きながら集会の聖書理解を改めて確認されたような気がする。そこには深い霊性と謙遜が求められるているようで自分にはないなと思った。そして思い出すのは聖歌総合版にも新しい礼拝賛美歌にもある「なおもみめぐみを」である。
1 なおも御恵みを なおも御救いを
なおもわがために みうせし主を知らん
(くりかえし)
なお深く主を なお深く主を
なおもわがために みうせし主を知らん
2 なおもみこころを なおも御救えを
なおもさやかに知らん 御霊なる神を
3 なおも深く主と なおも交わりて
なおもわれは聞かん 御声のある時
4 なおも御栄えの 富の豊かさを
なおも主の国の 来たるをわれ知らん
2009年10月30日金曜日
またまた
「言葉足らず」という言葉がある。私は言葉で相手に伝えるということが苦手である。苦手というより下手なのである。というかどこか言葉足らずでうまく伝わらないことが多い。
東京に来て、当然のように周りの人たちが自分より知識があり、教わることがほとんどだった。それも全く知らないことも少なくなかった。そんな中で自分が知って他の人が知らないってことはなかったから自分が知っていることは他の人も知っているというイメージが出来上がってしまった。キリスト者になっても皆先輩であり、知識においても然りである。ここにおいても私が知っている聖書知識は他の人も知っている。そんな思いが出来上がっている。だから私が舌足らずでも周りがこういうことを言いたいのだろうと理解してくれた。それらもあってのことかもしれない。でも、それから40年たっているからこれは通じないか。
このブログに珍しくコメントを下さった方がおり、そのことをここに書いて「問題意識を持っているのか単なるへそ曲がりなのか分かりません。」と自分のことを書いたのに、「自分」か「私」なりの言葉を入れなかったばかりに相手の方のことを書いたようにとられたようだ。たった一言のあるなしで受け取る側にとって天と地ほどの違いがある。許してくださるだろうが気をつけないといけない。
罪と滅びを強調するかキリストの愛を強調するか、しかし愛をどのように語るか難しい所だ。植村正久は大恋愛をしないとキリストの愛を語れないそのようなことを神学生に語ったようなことを何かで読んだ。キリストの愛は人間的な愛を経験なしで知ることができるだろうかと思うことがある。人を愛する故に煩悶、苦しみはキリストの愛に通じるように思う。利害で付いたり離れたりする恋愛は信仰もご利益的にならないだろうかと思ったりする。
東京に来て、当然のように周りの人たちが自分より知識があり、教わることがほとんどだった。それも全く知らないことも少なくなかった。そんな中で自分が知って他の人が知らないってことはなかったから自分が知っていることは他の人も知っているというイメージが出来上がってしまった。キリスト者になっても皆先輩であり、知識においても然りである。ここにおいても私が知っている聖書知識は他の人も知っている。そんな思いが出来上がっている。だから私が舌足らずでも周りがこういうことを言いたいのだろうと理解してくれた。それらもあってのことかもしれない。でも、それから40年たっているからこれは通じないか。
このブログに珍しくコメントを下さった方がおり、そのことをここに書いて「問題意識を持っているのか単なるへそ曲がりなのか分かりません。」と自分のことを書いたのに、「自分」か「私」なりの言葉を入れなかったばかりに相手の方のことを書いたようにとられたようだ。たった一言のあるなしで受け取る側にとって天と地ほどの違いがある。許してくださるだろうが気をつけないといけない。
罪と滅びを強調するかキリストの愛を強調するか、しかし愛をどのように語るか難しい所だ。植村正久は大恋愛をしないとキリストの愛を語れないそのようなことを神学生に語ったようなことを何かで読んだ。キリストの愛は人間的な愛を経験なしで知ることができるだろうかと思うことがある。人を愛する故に煩悶、苦しみはキリストの愛に通じるように思う。利害で付いたり離れたりする恋愛は信仰もご利益的にならないだろうかと思ったりする。
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