2017年8月19日土曜日

今日この頃


諏訪湖の花火、岡谷の花火、そしてお盆と毎日が日曜日の日々にも何かと慌ただしい昨今であったがようやく昨日あたりから普段の生活に戻ったという感じである。

昨日は久しぶりに歩いた。早く起きたので朝に歩いて走っている人は何人かいたかが歩いている人は皆無、早過ぎたみたいだ。諏訪湖の花火の後に打ち上げている近辺は清掃が入るがこちらもそうなのか綺麗だった。いつもズボンの後ろポケットにビニールの袋を入れているのだが今回は必要ないかなと思っていたら湖岸に目立つゴミがあったり何カ所かに相変わらずのタバコの吸い殻があって結局袋一杯になってしまった。いつもは1.5キロ近辺で引き返すのだが今回はその先の赤彦記念館で折り返し往復4㎞歩いた。

丁度一週間前に畑の草取りをする。面倒なので雑草は伸びるに任せて秋に枯れるのを待とうとしたが暑さにもめげず伸びる伸びる「こりゃまずい」と始めた次第である。膝をついてやるからズボンは土だらけ、シャツも右胸あたりを中心にして土だらけ、短めの長靴を履いて行ったからそこに土が入り、靴・靴下も真っ黒、そして腕と顔も…。かぼちゃのところはそのままだが畝の部分はきれいになったので満足する。ひとつの教訓を得た。雑草は早めに、野菜は保護しないと育たないが雑草はほっといたら幾らでも伸びてくるので早めに刈り込むか引き抜かないとダメ、信仰生活も然りで絶えず手入れ(みことば読み、祈る)をしていないと毒麦に覆われてしまう。


2017年8月11日金曜日

詩篇30篇11節



ps 30:11
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。


「嘆きを踊りに変える」というナウエンの本がある。副題に「苦難の中の希望」とある。
これとは別に人生はこのハザマで生きているのではないだろうか。嘆きはまさに嘆きであり、踊りは喜びを最大限に体現している姿である。このことで思い浮かぶのはダビデが神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町に運ぶ時に「力の限り踊った」とあるそれも裸で、このことで妻ミカルに軽蔑されるがサウル王の娘であるミカルにとって王たるものが民衆の前で「裸で踊る」なんて破廉恥この上ない姿であっただろうと想像に難くない。しかしダビデは意に介することなく「わたしはその主の前で喜び踊るのだ」と告白している。人にどのように見られているかなんて気にならなかった。小心者は主がというより人がと意識してしまう。まさにサウロ王の姿そのものである。聖書に登場する悪い見本が何故かよく合致する…涙…。

平穏無事な日々を過ごしていると突然悩み事が舞い込んでくる。安心しているわけではないが「来たかぁ」という具合である。主に祈ったからといってすぐ解決するわけでもない。勿論自分が努力してとかという範疇にない。人生に悩み苦しみはあって当然であるが悩み苦しみ続けることは「嘆きを踊りに変えてくださる」方に対して失礼である。あるいは不信仰と言っていいかもしれない。

ドアには外側に開くドアと外側に開くドアがある。外側に開くドアを一生懸命押しても開かない。しかしドアをチョット手前に引けば簡単にドアは開いてくれる。まさに「押して駄目なら引いてみな」である。この変化は発想の転換が必要なのことを教えてくれる。状況が何ひとつ変わらなくとも自分の中に変化が起こることもある。嘆きが踊りに変わるのはそういうことなのかもしれない。そこには自分の努力ではなく主によって変えられた自分がある。そしてそのことがそれほどの問題でないことを教えられるのであろう。こんな繰り返しの中で主の働きを実感できるのかもしれない。悩み苦しんでも悩み苦しみ続けることができないのがキリスト者なのであろう。

2017年8月6日日曜日

時のしるし?


少し前まで雨が多く気温も下がって夜だと半そでのシャツだと少し肌寒さを感じていたが今日は暑い。全国的らしいがここ信州諏訪も久しぶりの猛暑である。布団を干したからまだあたたかくほてって寝られるか心配でもある。それと畑の作物もジャガイモは昨年より少し良く、キャベツも昨年は青虫にやられたが今年はしっかりした玉になった。しかし他は成長が遅く実も少ないような気がする。ついほっとくからキュウリはジャンボになるはナスは割れ目ができたりであまりよくない。ミニトマもたくさん実をつけてはいるが昨年ほどではない。同じころ植えた義妹のは実をたくさんつけているから苗の問題かな?それと今年は雑草が良く育っているような気がする。黒マルチは剥がさないでそのままにしているが土が見えるところはしっかり雑草が生えている。これから秋野菜をやるがそこだけをやって後は面倒なので時が来て枯れるのを待つ。小さい畑でもその変化を見て気温の高さとか雨ナシが色々影響しているのかなと思わされている。

以前にも書いたがわが家は二方を○○エコーホールという葬儀場の駐車場に囲まれている。だから葬儀がある時は車の出入りがあるからすぐわかる。そして寒い冬に葬儀が多いのは当然だがここはどうも夏も多いような気がする。普段は閑散?としている駐車場、このところ何かしら車が停まっている。今日などは忙しい時に助けに来る人が乗っている車が我が家の前に停めていた。だから車の出入りを見て夏になったんだあるいは冬になったんだと実感している。

昨日内閣改造があって「仕事人内閣」だそうだ。ということは今までの内閣は?と問われる内閣だった?政治の世界は難しくてわからないが「仕事人内閣」だそうでホッとしている。どうなるかわらないが…。このような気候、混沌とした国際情勢や政局を見ると毒麦が成長して刈り入れが近づいているのかなと思ったりもしている。その前に反キリストが出現するのだろうが…。
都の中心にいるよりこような田舎にいると都会では見えないものが見えるのかもしれない。全然見えなかったりして…。

2017年8月5日土曜日

A・P・ギブス 続き


「ギブスは、福音派の伝統にたつ最良の人間の典型だった。彼は正真正銘の「神の僕」として、独身のまま全生涯を伝道に捧げた人間だった。アメリカ中の小さな教会を縦横に行きかいながら、一週間から二週間、時には一ヶ月もとどまって、神の言葉を語った。
彼は安逸や暇つぶしに陥ることもなく、空理空論を振り回すこともなく、また現代の多くの福音派の説教者たちのように権威や虚飾を求めるということもなかった。その生き方は極めて質素であり、今日のキリスト教会に万延しているような物質主義を今もし目にしたら、怖じ気をふるっただろう。
独学にもかかわらず、彼は聖書をよく理解していた。彼がこの本を愛しているのは誰の目にも明らかだった。そして人々をも聖書を愛するようにすることができた。そして人々が良いキリスト者であることを望んだ。彼がひとたび口を開けば、御言葉が躍動した。
その説教は火のように激しかったが、普段はとても親切で温和な性格の持ち主だった。とりわけ子どもたちに深い愛情を注いていたようだ。そのため、勉強や執筆や説教準備といった忙しいスケジュールの合間にも、彼を探して半開きのドアをのぞきにくる子どもたちのために、話をする時間をとっていたものである。
ギブスは主イエス・キリストへの深い愛を抱き、また神の子たちを愛していた。彼はユニークな性格の持ち主で、はっきりした個性的な人物だった。そして自分自身について驚くほど謙遜だった。今日のテレビ説教者に見られるような、おごり高ぶった様子を見ることは全くなかった。
彼は、町から町へと移動しながら自由に安息の場を得ることができたが、自分自身の家を持つことはなかった。彼が仕えた主イエス・キリストのように、彼もまた枕するところを持たなかった。ぼくの知る限り彼は財産も富も経済的保証も持たなかったが、彼と交わりを持った多くの人々の心の中で、彼はとても重要な位置を占める人物だった。
年老いたA・P・ギブスは、次の町の説教に急ぐ途上、交通事故でこの世を去った。おそらく居眠りが原因で道から飛び出したのだとされている。最期にあたって彼が自分の人生に残したものといえば、主が告げられたに違いない「良い忠実な僕よ、よくやった」という言葉と、彼とかかわった人々からの暖かい感謝だけであった。
ぼくが育った教会では、このA・P・ギブスのように、人々の魂に火を灯し、冷めかけた心を元気づけ、主の御言葉がふたたび体の内に燃えるようになるまで導いてくれる人間を必要としていた。周期的なリヴァイバルがそのキリスト教信仰の中心に置かれていた。ぼくたちは自分たちがそれを必要としていることを知っていた。」

本の内容を知ることはあっても著者の人となりを知るということは少ない。ギブスの人となりを知り、共感を持つことができた。うれしいことである。

2017年8月4日金曜日

A・P・ギブス


前回に引き続きジム・ウオリスの本からA・P・ギブスの人となりを彼が子どものころに受けた印象を記して見る。
「わが家はしばしば、巡回して町にやってくるリヴァイヴァリストたちを迎え、歓待した。ぼくが大好きだったA・P・ギブスという巡回説教者が、ぼくの家で食事をとりベッドで休んでいった時のことを覚えている。彼が到着する前に、母はぼくたちに食事の作法についてこと細かに教え込み、行儀よく振る舞うようにと注意した。ぼくたち子どもは、その偉大な説教者がやってきて食卓についた時はおそろしく神経質な状態になっていたが、「天国の最も上品で福音的な天使たち」として振る舞うという困難きわまる役割に挑戦した。
A・P・ギブスは、口ひげをはやした恰幅いいの男だった。彼は、まるでずっと昔からそこが自分の場所であったかのように落ち着いた様子で食卓についた。ぼくたちは彼の動作のひとつひとつに注目した。
彼は、食卓の真ん中に置かれた器にブドウが盛られているのを見ると、ぼくたちにウィンクしてから、ひとつかみばかり取り上げ、そのブドウを一つずつ宙に弾き飛ばし始めた。ぼくたちの目はフドウに釘付けにされた。それが弧を描いて落ちていき、偉大な説教者の口の中に納まるところを目撃した。見たことを信じられぬ思いでぼくたちは目をいっぱいに見開いたまま、素晴らしい技術に驚き入ってしまった。それから彼は、「君たちもやってみないか」ときいた。
まもなくぼくたちは、ブドウを宙に飛ばし始めることになった。そして、それが口の端を転がり落ちて床に落っこちるのを、眺めたり笑ったりした。ほとんどの場合、ブドウがぼくたちの口の中に入ることはなかった。哀れにも母は、この夕食の席が偉大な説教者と子どもたちの歓声に包まれ、最後にはまわりじゅうブドウが散乱し、器にはブドウの枝が残るだけという有様でめちゃくちゃになってしまったのを見ても、ただ笑うことしかできなかった。
よそからやってくる説教者については、そのすべてが、特にその特異な性格が魅力的であった。A・P・ギブスの場合は、その中でも格別だった。ぼくは彼が、半熟のゆでタマゴを自分の卵立てからじかに食べていたことを覚えている。それはぼくたちが今まで見たこともなかった食べ方で、例のブドウの時のように特別な技術でタマゴを扱ったのである。ぼくたちがあまりにそのやり方に魅了されてしまったために、彼は練習用としてタマゴ立てをめいめいの子供たちに買ってきてくれたのだった。
A・P・ギブスは説教者であると同時に作曲家でもあった。夕食後、ぼくは彼のために用意されていた寝室に荷物を運ぶよう言いつけられた。彼は新しい歌集のために作曲しているところで、スーツケースの中には本やら紙やらがいっぱい詰まっていたために、重くて持ち上げられないほどだった。まもなくそれらの紙は一面にぶちまけられて、隅から隅まで部屋を占領してしまった。同じように洗濯物も、風呂場中、シャワーから流し場まで吊るして干されていた。」

この続きはまた明日。

2017年8月3日木曜日

懐かしい名前


ジム・ウォリス著・小中陽太郎監訳という本を読んでいる。題名は長いので端折るがこの本の目次の手前に小さくこのようなことばが記されていた。

      両親と
      A・P・ギブスの思い出と
      福音を生き生きとさせている
       ぼくの伝統の中のエヴァンジェリストたちに

とあった。
A・P・ギブス?どこかで聞いた名前であることを思い出し、そう伝道出版社から出ている「礼拝」の著者である。出版社のHPを見たら今も発売されている。礼拝の古典と言ってもいいのではないだろうか。勿論諸集会と教会では礼拝の認識は少し違う。しかし、原点に返るという意味で、もう一度読んでもいい本である。写真の表紙などを見ると昔と変わらないようであるが値段が1750円とあった。ちなみに超古本になっている我が本はプライス200円、出版は昭和35年12月となっている。自分がクリスチャンになる5年前に出版されている。

ジム・ウオリスは集会の人のようである。集っている者としてはうなずけるが集会の様子をこのように書いている。
「ぼくの家は、さまざまな人たちのために解放されていた。後に子どもたちが成長して家を離れてからは、泊まる場所を求める人、大学生、家族の友人、問題を抱えた十代の少年たち、火事で焼け出された一家などのために、家がいっぱいになるということもしばしばあった。こうして絶え間なくやってくる誰もが、両親と、個人的な問題、霊的な問題、そして結婚問題について話し合っていたことを覚えている。そのほとんどは、僕たちの通っていた教会の人々であった。その教会は、プリマス・ブレズレン教団、またはプリマス・プレズレン集会と呼ばれていたが、牧師などの教職者を持たずに、牧会的務めや指導は、各個教会の一般信徒から選ばれた長老たちによって分担されていた。ぼくの少年期から青年期にかけてのほとんどのあいだ、父は教団の筆頭長老を務めていた。一方ではエンジニアや実業家として働きながら、父は牧会的な務めとして、説教や教会教育、結婚式や葬式などの仕事にも携わっていた。そこで僕は、説教者の息子として育てられるという経験をすることになったのである。
両親は長いあいだカウンセリングの仕事を行っており、また教会に来る夫婦のために「結婚相談」の講座を指導していた。実際には二人とも牧師としての務めを果たしていたわけだったが、公的には父だけがそうした牧師的な存在として承認されていた。というのは、プリマス・ブレズレン教会では、女性の役割が徹底して従属的なものと見なされていたからである。女性は髪に被りものをしなければならず、礼拝で説教することは許されなかった。また子供や女性を相手にする場合を除いて、何であれおおやけの指導的な役割につくこともできなかった。けれども女性たちは、事実上さまざまなことで共に教会をささえていたのである。」
と書いてあった。そして別な個所ではA・P・ギブスの人となりを書いている。礼拝という本を書いているから堅物かなと思いきや実にニューモラスな方らしい。これは次回に…。

2017年8月2日水曜日

詩篇34篇6節


この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
すべての悩みから救い出された。(口語訳)

この悩む者が呼ばわったとき、
主は聞かれた。
こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。(新改訳)

この貧しい人が呼び求め声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。(7節、共同訳)

今、詩篇を読んでいる。
この箇所は救いの確信を得た箇所であり、というより主にギブアップした箇所である。通読していてこの箇所にくると当時のことを思い出す。

集会に集うようになる半年前位に聖書の通信講座をやっていた(といっても少し適当だったが)。聖書の概略は少し分かったけれど聖書は自分の知識の範疇にないものだった。

小さい頃すぐ近くにある神社でよく遊んいて、今はどうかわからないが当時は中にも入れて隠れぼの格好の場所だった。といっても三間四方の小さい神社で中は何もなかったから屋根の庇の空間部分によく隠れていた。

正面の奥に小さな祠のようなものがり、小さな扉がついていて、みんなが拝むからどんなにすごいのが入っているのかなと誰もいない時に、そっと小さい扉を開け、和紙にいくつにもつつまれているの開けたら中に薄い真鍮の円盤が入っていた。大人が拝んでいる物がこんなものだったのかとがっかりしたことを今も良く覚えている。私はどちらかというと好奇心の強い子供だったがこれはやり過ぎたなと今は思っている。こんなのを見ていたからキリスト者になる前から神社の前で拝むことはなくなった。

こんな経験から「神がすべてのものを創られた」と聞いた時納得できた。罪の問題も自分の内面も綺麗なものでないことも分かって納得できたが何故その為にイエス様が死んだということが納得できなかった。他に解決の道はないのかとあるわけはないのだが…。

二十代前半で生きる希望を失って死ぬことばかりを考えていた。その当時は自殺する人を羨ましく思い、自分にその勇気のないことを恨んだものである。オートバイ事故を起こしても車は壊れても自分はかすり傷一つ負わない現実を見て「死ねないな、生きる算段をしなければ」と思うようになり、変わらない生きがいを求めて一枚のトラクトから求道の道に…。

そして最後の壁にぶつかり、後にも引けずさりとて前にも勧めず悶々としていた時にこの聖書のことばが目に入ってきた。どう関連づければよいのかわからないが「これだ、主よ単純に信じます」と告白して悶々としていた心の重荷がスーと軽くなったことを今も鮮明に覚えている。納得したわけではなくギブアップした信仰はどうも問題で、色々な経験を通して離れることはないがどこかアウトサイダー的信仰の道を歩んでいるようである。寂しいがどこか落ち着く…。