2017年3月24日金曜日

速歩&ゴミ拾い


信州の三月は春というより寒さが和らいだという季節である。tenki.jpを「お気に入り」に入れて毎日下諏訪町の明日の天気予報を見、ついでにその後の十日間のお天気と最高最低気温を見ながら「春はまだ先だなぁとかもう少しで春が…」とか「日曜日は5.9℃で雨かぁ、でも来週あたりから気温も10℃前後になってる来るから春も近いな」とかつぶやきながら一喜一憂している。

4日から歩いてなくて17日に2キロ先の皮膚科の医者に行くのに運動不足もあり歩いて行って来た。寄り道などもしたので5キロ余り歩いたから一回3キロ目標だから二回弱の感じに…。今週は真面目に一日おきに歩いている。それも少し伸ばして4キロと、それにふくらはぎの筋肉に刺激を与えるために足をまっすぐ延ばして歩いている。お蔭でラジヲ体操をやると前屈では手のひらがつくようになった。

寒い時は暑い手袋をしていたが今は薄い手袋か素手で歩いているのでまたゴミ拾いを始めている。歩いているとそれほどゴミは眼につかなくなった。それでも帰ってくればコンビニの袋に八分目は入っている。相変わらずタバコの吸い殻が多い。この間はビニール袋に入れた数本のカセットボンベの缶が捨ててあった。それと業者が入ったのか湖岸渕のゴミは少なくなっている。それでもペットボトルや白いビニールが目に入る。そのうち暖かくなったらゴミ拾いの出で立ちで始めようかと思っている。こんなのは俺だけかなと思ったら先日大きなビニール袋とトングを持ってゴミを拾っているおじさんがいた。家内が歩いている時に(別なところ)そこでゴミを拾っているおじさんを見かけたそうだ。4月から対岸でのシニアのゴミ拾いがある。今シーズンはコツコツと出来るか卒業するか?どうなるか?である。

2017年3月18日土曜日

何をしたかではなく、何の為にしたか


「武芸の達人だが職につけない武士、三沢伊兵衛とその妻たよ。妻は、人を押しのけず人々に希望を与える夫をあたたかく見守っているが、職のない伊兵衛は日々妻に申し訳なく思っている。旅の途中、折からの豪雨が夫婦を河畔の宿場町に足止めさせる。やがてその雨があがる頃、城主にその腕を偶然認められた伊兵衛は、藩の剣術指南番に招かれるが……。現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作。」「雨あがる」の映画の紹介があって、山本周五郎原作、黒澤明脚本、寺尾・宮崎美子主演をネットで観た。20年近く前の作品で出演している中の何人かはもう亡くなっている。それと今の若い人たちには受けないだろうなと思ったがこの年になると共感するものがあってよかった。山本周五郎・寺尾聰どちらだけでもどこかほのぼのとしたものが湧いてくる。

藩の指南役にほぼ決まりかけたが賭け試合をしたという訴えがあって駄目になってしまう。
長雨で足止めされていた人たちが食べ物もなく困っているのを見かねて賭け試合で得たお金で食べ物とお酒を買ってきて、長雨で沈みがちな人たちを元気づけ陽気にしてくれた。その為の賭け試合であった。城から断りに来た家老?に向かって妻が「何をしたかではなく、何のためにしたかが大事だ」と言い、喜んでそこを旅立つ、その言葉を聞いた城主は諦めきれずいたので自ら馬で二人を追いかけて行く、山道を歩く二人のシーンが繰り返されて、山越えした二人は目の前に広がる美しい海を眺めて感嘆して終わる。「何をしたかではなく、何の為にしたか」の言葉はイエス様が安息日に何人かの人を癒された。それをパリサイ人は安息日に癒したことを問題にしている。このことを思い出してしまった。自分も頭でわかっていてもいざとなったらパリサイ人的発想と行動が起きてしまいどこか批判的になってしまう。他者を生かすために己を…ことは大事だがいざとなると難しいことを実感する。イエス様は私たちを生かすために自ら死を選ばれた。心しなければならないことだと思っている。

2017年3月14日火曜日

「服従」という本を読んで


ミシェル・ウエルベック著の「服従」という本を図書館から借りてきて読んだ。抑揚?のない書き方で書かれているので読みづらかったが流し読み的に読んでしまった。

「服従」は2022年にフランスにイスラム政権が誕生するという近未来小説で、主人公はフランスの若き大学教授である。フランスという国は俗に言うジェンダーフリーの国なのか性的な事に関してはオープンなようである。恥を知る国では隠されているものがオープンに書かれている。しかし、この作家だけなのかもしれないし日本の小説でもエログロは別にしてもオープンに書いているものもあるのかもしれない。

出だしは主人公の身の回りのこと、日常の生活がことが淡々?と長々と書かれている。途中から突然のように大統領選挙のことが取り上げられてくる。最終的な大統領選挙で暴力的な極右政党か穏健なイスラム政党かとなった時に国民は暴力的な極右政党を嫌って穏健なイスラム政党を選ぶ、結果は静かに大学は変革されていき大学の教授はイスラム教徒で無ければならなくなった。教授の職を辞さなければならなくなり、後にカトリック教徒として生きようとしたが最終的にはイスラム教に改宗して大学教授の職を再び得る。大学の教授に戻りたいために改宗したというよりも改宗することはそれ程大きな問題ではないと認識して決断する。そうすれば大学の教授の職も得ることが出来るそんな感じを受けた。知的階級?の政治に対する無関心無力さをそして退廃的な精神を感じた(文学部教授という世界からか?)。勿論フランスがそうであるというのではなくあくまでも小説の中でのことである。小説の中でイスラム化していくフランスの危惧を伺い知ることはなかった。緩やかに変化していく中で、人々が気がついた時には戻ることの出来ない状況になってしまうのだろう。かつての日本とドイツナチスがダブる。

今ヨーロッパでは難民が問題になっている。彼ら難民はヨーロッパに経済的民族的にと色々問題提供をしている。自分に都合の悪い者たちを追い出して難民化させるのかあるいはヨーロッパを弱体化する意図から難民として送り出しているのかわからない。人道的支援と叫ばれる中で善意が前面に出ている。それは悪いことではないがその大きな動きの背後に「空中の権威を持つ支配者」を感ずる。小説本来から逸脱しているのだろうが若き大学教授の大学がイスラム化して行く中で危機感を持つことなく実に退廃的な発想に終始している姿にガクっとくる。終末に生きる一キリスト者としてだからだろうか。

2017年3月6日月曜日

今月のみことば


「あなたがたは、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネの福音書 16章33節)

 マーティン・スコセッシ監督の映画、『沈黙』を見た。見事な映像のもつ迫力で、禁教の日本に潜入したポルトガル人宣教師の生き方が描かれている。原作者である遠藤周作の実存的な問いかけが重くのしかかる映画でもある。神はなぜ、信じる者たちを過酷な運命から助けてくださらないのか、なぜ沈黙しておられるのか、と。◆稀なる才能とたくましい信仰で尊敬を集めたフェレイラも、師の行方を追って日本に潜入したロドリゴも、結局は、背教の道を選び、日本の土となって死んでいく。神が「沈黙」しておられる以上、それ以外に生きる道はあっただろうか。いや、キリストは「この私を踏んでもいいから生きよ」と言っておられるのではないか、というメッセージをほのめかして映画は終わる。◆神が沈黙しておられるように見えるのはなぜか。◆私たちはこの世ですべてが完結しないと気が済まない。しかし、神の公正な審判が下されるのは将来である。その時には「大きい者」すなわち権力者も、「小さい者」すなわち庶民も神の白き御座の前で、何人も納得せざるを得ないさばきがなされる、と聖書は告げる(黙示録20:12)。◆また私たちはみな自分が聞きたいメッセージしか耳に入らない、という弱点がある。聖書に答えが書かれているのに、それでは満足できないのである。◆実に神は沈黙されるどころか、日本のドアを叩き続けられた。1549年のザビエル来航によって植えられた信仰の根は踏みにじられた。しかし、1853年の黒船来航にはペリー、1945年の敗戦時にはマッカーサーというクリスチャンを神は日本に送られた。ここで、日本の国の形は大きく変わることになった。政治において、教育において、日本は迫害の対象であったクリスチャンから、また長く禁書とされた聖書から広く深い影響を受けることになったのである。◆「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは語られた。問題は神が沈黙しておられるように思われることではなく、果たして私たちに聞く耳があるかどうか、ということではないだろうか。
      長野キリスト集会月報 三月号より

追記
 今回は割とスムーズに指が動いてくれた。指が前回は酩酊なら今回はちょっと一杯くらいの感じ。あまりいい表現ではないが…。

2017年3月4日土曜日

久しぶりの速歩


このタイトルはこれで何回目だろう。その数だけ否それ以上サボっているということだ。今日はと思いながら何かをやっていると気がついた時にはもう遅くなってパスの繰り返しだった。最近は日も延びて寒さも一時に比べたらきつくなくなったが少し前までは4時を過ぎると日が差していてもがくんと寒くなり風は肌を刺すように冷たかった。そんな繰り返しで3月に入り、日も6時近くにようや暗くなりかけてきて肌を刺すような寒さもなくなってきた。

昨日はコーヒータイムでお菓子をつまみながら久しぶりに水戸黄門を観る。久しぶりに見たら里見浩太朗黄門様だった。里見さんのはチョット気障っぽくてあまり好きではないが何となく見てしまった。この時間は上記に書いた「何かをやっているとつい」はPCをやっている。やっていると途中でやめることは正直勇気がいる。外は寒くなり、炬燵に入ってPCをやっていれば腰はさらに重くなり今日はパスとなる。そしてコーヒーカップを横に置きながらお菓子をつまみながらの所業なのである。それがTVを観ながらそして黄門様の後の堀尾さんのニュースを観ながら今は黄門様より堀尾さんがメーンになっている。豊洲問題で賑わっているが元都民としては気になる。松下幸之助の推薦を受けて政界にデビューしたころはよかったがあの醜態の会見を見て、「驕る平家は久しからずや」の言葉を思い出した。彼にホンのチョットの謙虚さがあったら多くの人から尊敬を受けただろうに今は「醜悪」としか見えない。しかし彼をあそこまでしたのは彼のまわりに真に国民を想い、都民を想う政治家がいなかったということかもしれない。彼らが彼をあのようにしてしまったともいえるかもしれない。

脱線したが堀尾さんのニュースを観ながら少し暗くなりかけたのにそれほど寒くないのでリュックにバスタオルと着替え下着を入れてウォーキングスタイルで出かける。風はそれほど冷たくない。湖畔端には幾つかのストレッチがある。その中のひとつを数分やっていつもの折り返し地点へ、その先にゆたんぽがある。こちらも超久しぶりである。入っているの数人、露天に入って体は温まるが顔は冷たいがこれが長湯の出来る所以なのである。中の湯は長く入っていると貧血を起こすこれで何度か倒れた。

日曜日の集会は建物の3階、いつも階段で上がるが3階に来ると息が切れて、運動不足であることを自覚させてくれる。それに歩くこともパスパスだったのでどうかなと思って歩き出したがそれほどでもなかった。帰りは温まった体に少し冷たい風が心地よかった。速歩で休むことなく歩いたら家に着いたら少し汗ばむ感じだった。4000歩、3.5キロまだまだ元気みたい。今日は午後から自転車で…。

2017年3月1日水曜日

シャキョウ


お寺さん関係では座禅を三-四回経験しているが写経なるものはこの間初めて経験した。シニアの集りで毎年この時期に行われているが習字が下手なのと興味はそれほどないしそれに準備が面倒という理由で参加していなかったが大分前から企画があるなら不都合がない限り参加しようと決めていたので参加することにした。参加するのに「と…」とあり、よく聞いてみたら筆ペンでもOKですよと言われ、筆ペンは祝儀不祝儀用にと買ってあり、その他に下敷きが必要と言われ新聞紙でもよいが100円ショップでも売っているからと言われて早速買ってきた。実際には筆ペン新聞紙という方も墨汁と毛筆という方もいて本格的と適当?と色々であった。この集まりにはお経を読める人と四国八十八カ所を二回に分けて走破?した猛者もいるからどちらかというと信心深い方々なのかもしれない。習字に毛のはいた感覚の我はお寺さんや彼らから見ると不謹慎そのものかも…。A3四ページの「初心者写経手引き」なるものには

写経
鐘を合図に、合掌礼拝(ライハイ)し、ゆっくりと写経を始める。
 自己の修行なので、上手下手、早い遅いは関係ない。
 一文字一文字を、仏さまと観じ、自分の心に、
 仏心を抱く気持ちで、丁寧に写す。
・・・
納経
感謝と願いを込めて、仏前に奉納する。
(実際に本堂に行き、お坊さんがお経(般若心経)をあげている中で 個々に卓子に載せ、お焼香をし、お坊さんに一礼して退席)

習字と同じように見本があってそれを書き写すのかと思ったら薄く印刷した般若心経をその上からなぞるように筆で書いていく、それほど難しくないが下手は下手である。それと難しい字があって薄くてカクがわからないのが幾つかあって後で原稿があったらいいのにと言ったらこれから置くようにしますと言ったがどうするか。

こ度のお寺さんは真言宗、手引きのA3四ページの3.5/4はお経の話を見るとお経を重点に置いているようである。その中でも「般若心経」は「般若経」を短く要約されたお経のエッセンスが詰まっているものだそうだ。短い故に省かれている部分もあるとか、「般若心経」を写すことにより難しいお経を唱えたことになるということかこれも信心の一つなのかなと思わされた。最後に、

   『般若経』の主旨「空」の考え方
「空」 
それだけで存在せず、「縁」によって成り立っていること。
ものごとに絶対・永遠はなく、すべて相対・流動であること。

①おかげさま 
自分ひとりで生きている訳ではない。
両親、先祖、家族、友人、地域、会社、社会、天地自然など…。
(様々な「縁」に感謝し、できることから恩返しを。)

②諸行無常 
因(努力)と縁(環境)によって、物事は絶えず変化していく。
過去からの因縁で今があり、今の因縁が未来をつくる。 
(今をありがたく受け止め、一日一日を大切に。半分は流れに任せる。)

③諸法無我
すべては言葉で仮に名付けて区別しているに過ぎない。
「出世魚」「国境」「時間」「善と悪」「男らしさ女らしさ」「私とあなた」「生と死」など…
言葉は、人間だけが有する叡智。これによって文明を築いたが、その反面、言葉に捕らわれすぎると、こころが雁字搦めに。
(ものごとに過度に執着せず、とらわれない心を。)

④一味平等
実はものごとには区別はなく、すべて平等で清らか。
誰で本来の心は、晴天の空のように、澄み渡っている。
(誰に対しても、分け隔てなく、慈悲の心で接するように。)

⑤仏天守護
知恵を磨き、信心あるものを、仏天は必ず守り導く、
こころの安らぎは、祈りによってもたらされる。
(仏天に手を合わせると、心が落ち着き、輝きを増してくる。)

ただ坊さんの話を聞けば聞くほどわからなくなる。四苦八苦で表させる人の苦しみは誰もが経験することであるから分かるように人の有りの儘の姿を語る時にはわかるがそれと結びつけて仏教の話をされると分からなくなる。小乗仏教は初心者向け、大乗仏教は上級者向けとか言っていたが日本は大乗仏教、キリスト教でいったら神学かそれならなんとなくわかる。一キリスト信徒にはわからないものであるから同じようにお経もわからないのが当然かと納得した。分からないところがアリガタイのかもしれないと言ったら失礼か。

長く聖書に触れ、その世界観に生きてきたものにとって違いが明らかに見える。聖書にも「空」はあるがその解釈が違う。聖書は神なしでは「空」なのである。「空」はそれだけでは存在せず、「縁」によって成り立つという。絶対とか永遠はなく、全て総体、流動である。と
ここに輪廻の思想を想い、お釈迦様が死後の世界は語らず今をどう生きるかを求めたと聞いたことがあったがまさにそうなのかと納得した。

座禅も最初は曹洞宗のお寺で壁に向かって座り、所作に細かい指示があり、各々に意味があったように記憶している。別のお寺は臨済宗であまりこだわりがなく、正座は数分しか持たないので「何時間でも座禅をしていることが出来る」とお坊さんが言われたことだけが印象に残っている。だからといって仏教を批判するつもりはない。しかし、日本人の精神構造はどうなっているのかと思うとこのようにかかわらないと分からない部分もあるのではないかと思っている。ある意味で中心部分が曖昧模糊ととしているというのが実感である。これから機会があったら素朴な疑問を投げかけていきたい。勿論論争するつもりはない。日本人の深層心理を知り、そこから何かを生み出せたらと思う。余談だが話の中に宮沢賢治の「アメニモマケズ…」のことに触れていた。あの詩のモデルは内村鑑三の弟子で齋藤宗二郎だとキリスト者の中では語られている。それが頭にあったからそれに触れず宮沢賢治は熱心な法華経の信者で彼が目指している姿だったか仏の姿だったか記憶にないがそのようだと思った。こういう見方もあるのかと再考させられた。パスカルが言われたという「人には神のかたちをした空洞がある」と、パンセにあるのかなと読んだが読んだパンセにはなかった。当然のように結論付けることの問題があることを知った。無学な者には難しいことは無理だが「犬も歩けば棒に当たる」ではないが何か勉強になることがある。キリスト者と言っても聖書を中心とした福音主義の世界しか知らない。それもどちらかというと少数派の根本主義の世界に生まれ育った者である。眺めて切ることは簡単だが相手の立場に添えて語る必要があるように想う。だから受け入れられるというわけではない。学問は勿論のこと世間も知らない者にとっていい勉強になった。

美術鑑賞


先日近くのハーモ美術館に26日までルオー特別展なるものがあるというので行って来た。ここはクリスマス会で二回ばかり使わせてもらったところでもある。小さな美術館で展示してある数も少ない。そして主には素朴派と言われる人たちのものが多い。カミーユ・ボンボワ、アンドレ・ボーシャンン、ルイ・ヴィヴァン、グランマ・モーゼスなどである。と書いているがこれはパンフレットを見ながらそして思い出しながら書いている。この他にも名前は知っているのではルオーは勿論、アンリ・ルソー、アンリ・マティス、シャガール、ダリなどである。パンフレットにはミロやミレーもあるようだったが気がつかなかったか展示してなかったかもう定かではない。

素朴派と言われるように実に絵画は素朴である。それに画家たちは若い時から絵を勉強してというより殆どが労働者として働きながら好きな絵を描いていた。だからか絵を観ているとなんか自分でも書けそうな印象を与えてくれる。しかし、静物も風景画も実に細かく丁寧に書かれているからこれで無理である。それにデューラーの「祈りの手」ではないが長く肉体労働をしていると繊細に手は動かない。それ以上にセンスがない。写実的は絵画と違った素朴であるが眼に訴えて来るものがある。なんでだろうと考えたがわからなかった。名前と絵は一致しないが引き付けるもの訴えて来るものは皆同じである。T'セントホールにはたくさんルオーのものが展示してあったが思ったほどではなかった。宗教画家と言われているから聖書からといっても福音書からのものが多いがその題材は少なかった。それは以前に見たものでもあった。

音楽もそうだがわかるわからないではなく、非日常の世界に浸ることも大切かなと思う。心を落ち着かせ「静」の空間が必要であることを実感した。近いのでまた行って心落ち着かせる時間を持ちたいものである。その延長として売店を兼ねた喫茶室があったのでコーヒーを飲んで少しくつろいで帰ってきた。今回は招待券があったので無料だが入場料は千円、コーヒーだけだったら350円、散歩の帰りに湖を見ながらの一杯もくつろげる。ケーキを追加したらさらにだろうが。