2011年11月18日金曜日

今巨人軍が面白い

野球は藤村富美男選手がいた頃からの阪神ファン、藤村富美男?と中年のおじさんにも言われそうな年である。ファンと言っても野球はニュースで見るだけ、夜のスポーツニュースは勝てば何回でも見るが負けた試合は見ない。あそこのチームは期待すると良く負ける。だからあんまり熱を入れない。あのチームを見ていると野球はメンタルなスポーツである事を教えてくれる。大阪の人が好きになるような面白いチームである。


こういう面白さがないのが巨人である。選手が洗練されている。ガキ大将といいとこのお坊ちゃまの違いがあるように思う。 ほんとかどうか知らないが阪神は昔優勝すると選手のギャラは上がるし諸々の金がかかるから優勝はいけないような、そんな事を聞いた事がある。事実かどうか別にしてもこのようなうわさが流れることだけでも面白い。巨人は優勝当たり前のチームである。優等生のおぼちゃまは実につまらないと同様に巨人も然りである。

巨人は選手が好きだったが巨人軍が嫌いだった。あるいは読売が嫌いだったからかもしれない。どこか胡散臭いところがある。昔、職場に資格の問題で顔だけ出す年配の方がいた。この方がいつもサンケイを持って来ているので後で読ませてもらった。タイワン新聞タイワン新聞と言っていた。確かに他社にはタイワンのタの字も出ない時でも台湾の何かが載っていた。その当時朝日を読んでいたから、この二つの取り上げ方が水と油の如しであるのに驚いた記憶がある。もう20年から前の話である。しかし、縮まったか広がったかわからないがこの傾向は今も変わらないようである。今、新聞を取ってないが図書館では地方紙を読んでいる。たまに左右?は読まず、中間の読売を読んでいる時がある。

今回の騒動、出るものが出たという感じである。一人を悪者にしているが見方によれば確かにそうかもしれない。しかし、周りが保身のためにか沈黙するからこういう結果になったと思っている。色々身内でコメントしているがそれは保身的である。面子を保つために叩くだろうが墓穴を掘らなければいいがと心配である。開幕時に巨人かドームかは忘れてが他とは別だと電力が逼迫しているのに、記者上がりで時を読めない姿に多くの国民は唖然としたのではないだろうか。その人が今も主筆?ジャーナリストの正義なんて原発でボロが出ているし、それをどうこう思わないが悲しいに尽きる。
こうなってもこれが潮時とエールを送ったら株が上がるだろうに、そんな事はないな、頑張ってくだいさいとエールを送ろう。引き際の難しさを覚える時、本田宗一郎氏の引き際の鮮やかさが思え浮かんでくる。



2011年11月15日火曜日

月いち

日曜日に月一回東京から伝道者のMファミリーと今回は新婚のN兄姉が来て下った。今回はいつも借りているところが借りられずパークホテルで行うことになった。ここは、召されたO兄が来られる時によく使っている所である。いつもと違った雰囲気があってよかった。

彼が来るといくつかの感心する事がある。その一つに必ず誰かを連れて来てくださる。奉仕で集会を留守にして来られる時は誘う時間がなくてファミリーで来られる時もある。これはこれでまた個人的な話ができたりするからこれもまた楽しい。また来てくださる兄姉も特に兄弟は仕事で忙しくしている。ある時は、兄弟が朝というより夜3時に起きて、5時から仕事という兄姉が来て下ったことがある。それももう二度かなうれしい限りである。彼は9時になると眠くなるということである。サルは12時前に寝ることは滅多にない。2時3時は珍しくなく、下手すると4時5時になることがある。彼が職場で仕事を始める頃に寝る。そんな時いつも彼のことを思い出す。

サルは人を誘っていく事よりも自分ひとりで行動する事が多い。せいぜい夫婦とである。それは面倒なのと断られたらどうしようという不安がある。それと集団行動が苦手で、わが道を行くタイプでもある。加えて、みんなが右だというと左を向く、その声が大きければ大きいほど、即、左に歩き出すようなへそ曲がりでもある。

M兄は若い兄弟に話す機会を与え、また私たちに色々な兄弟たちの話を聞くチャンスも与えてくださる。伝道者として、各地の集会に招かれ奉仕の業をなされている。来週は確か群馬での奉仕があると聞いている。関西系であるから話が面白く、聖書の核心をわかりやすく話をしてくださる。それと集会の責任を担っている。これも賜物を必要とされるものである。だからこそ兄姉を連れて来れるのかもしれない。

普段はあっという間に、静かなうちに終わるのに、月に一回だけ賑やかに、午後もある。賑やかで長い時間だけではない。そこでのメッセージも蜜の濃いものである。キリスト者であることを満喫できる。その後、我が家と義姉夫婦とで交互に夕食をとる。今回は我が家である。家内は食事の準備で忙しいので大変であるがわいわい言いながらの食事の交わりも楽しい。今回はM兄が誘って、Oファミリーも来てくれて、狭いところが更に狭く、更に賑やかなになった。彼らがこれを機会に集う事を願う。良い事ばかりではない。これからのことが示されてもいる。しかし、私は腰が軽いが公となると実に「動かざること石のごとく」であるからウーンとうなってしまうが。


パンセ

パスカルのパンセという言葉は知っていたがそれ以上のことは知らなかった。[パンセ]というフランス語は、[考える]、そしてその成果としての[思想]の事であるが、更に[簡潔な表現に凝縮された思索あるいは着想]、つまり格言や断章を意味する事もある。とある。知っている人が読んだら笑われるだろう。

パンセを知らなくてもパスカルの「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかに最も弱いものである。だが、それは考える葦である・・・」は知っている。勿論、無学なサルでも知っている。それと福音のメッセージに「人間には神のかたちをした空洞がある」と言われるのを良く聞く事がある。それとえっと思ったことがあった。それは「クレオパトラの鼻、それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう」。これは昔から聞いて知っていた。パスカルの言葉である事は勿論パンセからのものとは知らなかった。

これらは知識として知ってるということだけである。しかし、「神を知ることから愛することまで、なんと遠いのだろう」というこの言葉は考えさせられる。キリスト者として、聖書をそれほど知っているわけではないがそれでもノンクリスチャンよりは知っているだろう。物覚えが悪いといっても聖書や聖書関係の本を読めば知的なものは増えてくる。それに比例して愛が増えるわけではない。大袈裟な言い方をすれば無関係である。むしろ神の知識が増えれば増えるほど逆に愛のなさを認識するのである。ある意味で知的好奇心はセーブして、愛の実践にウェートをかけないといけないのかもしれない。しかし、身近にいる連れ合いにも時にとげの含んだ言葉を発する者としては、まさに難儀なことである。それとは別に、若者の読む?この本を年寄りになってしまったサルはチビチビと読もうとしている。最後まで読めるか39歳で亡くなられた著者の倍近い年齢で理解できるか楽しみである。




2011年11月12日土曜日

寒くなって

こちらに来て、タイムスリップのように思い浮かんできたことが二つある。一つは冬である。雪国で生まれ育っているから雪が降ると小さいときのことが思い出される。しかし積もるような事は少ないから生活としては助かるが寒さはこたえる。それともう一つは、集会に集うようになった若い頃の集会を思い出す。あの当時よりもこちらは更に小さな集まりだが形態が似ている。というより前にいた集会が変わったと言った方がいいかも知れない。私がいる頃でも7、80人、今は100人前後と聞く。下手すると座るところがない時もあるような事を聞いている。それでもばらつきはかなりあるそうだが。すぐれた人たちが集まって、どこか会社のような組織だっているのかなと思っている。

こんな表現は正しくないかもしれないが、集い始めた頃はわいわい集まっていたような気がする。好きな事を言っても許されていた。寄り合い所帯みたいもの、組織とは程遠いものだった。すぐれた人物がいるわけでもなく、その上に古い建物で世の中の人には魅力のないものであったろうなと思う。何か個人商店のようであり、大きい集会は株式会社のような、そんな違いを感じている。ただそれだけの事なのであるが。

教会の語源のエクレシアは呼び集めるという意味があると言われている。しかし、元々は平等と自由の意味でもあったと聞く、この言葉は好きだ。教会も集会も「呼び集められた神の民」である事に異論はない。組織としての牧師制や長老制には、効率的であるが平等と自由はないように思う。福音書で見るイエス様の言動は、まさに平等と自由がぴったりの姿を見る。しかし、牧会書簡にはそれがない様に思うがどうだろう。だから少し抵抗がある。パウロは今日の教会の組織を見て納得しているのだろうかと思う時がある。今日の教会なり集会の弊害?はここから来ているのではないだろうかと思ったりもする。あるいは曲解している。天に行った時にそれはわかるだろう。気候も懐も寒くなって、斜に構えてしまった。