2011年11月12日土曜日

寒くなって

こちらに来て、タイムスリップのように思い浮かんできたことが二つある。一つは冬である。雪国で生まれ育っているから雪が降ると小さいときのことが思い出される。しかし積もるような事は少ないから生活としては助かるが寒さはこたえる。それともう一つは、集会に集うようになった若い頃の集会を思い出す。あの当時よりもこちらは更に小さな集まりだが形態が似ている。というより前にいた集会が変わったと言った方がいいかも知れない。私がいる頃でも7、80人、今は100人前後と聞く。下手すると座るところがない時もあるような事を聞いている。それでもばらつきはかなりあるそうだが。すぐれた人たちが集まって、どこか会社のような組織だっているのかなと思っている。

こんな表現は正しくないかもしれないが、集い始めた頃はわいわい集まっていたような気がする。好きな事を言っても許されていた。寄り合い所帯みたいもの、組織とは程遠いものだった。すぐれた人物がいるわけでもなく、その上に古い建物で世の中の人には魅力のないものであったろうなと思う。何か個人商店のようであり、大きい集会は株式会社のような、そんな違いを感じている。ただそれだけの事なのであるが。

教会の語源のエクレシアは呼び集めるという意味があると言われている。しかし、元々は平等と自由の意味でもあったと聞く、この言葉は好きだ。教会も集会も「呼び集められた神の民」である事に異論はない。組織としての牧師制や長老制には、効率的であるが平等と自由はないように思う。福音書で見るイエス様の言動は、まさに平等と自由がぴったりの姿を見る。しかし、牧会書簡にはそれがない様に思うがどうだろう。だから少し抵抗がある。パウロは今日の教会の組織を見て納得しているのだろうかと思う時がある。今日の教会なり集会の弊害?はここから来ているのではないだろうかと思ったりもする。あるいは曲解している。天に行った時にそれはわかるだろう。気候も懐も寒くなって、斜に構えてしまった。