2011年11月15日火曜日

パンセ

パスカルのパンセという言葉は知っていたがそれ以上のことは知らなかった。[パンセ]というフランス語は、[考える]、そしてその成果としての[思想]の事であるが、更に[簡潔な表現に凝縮された思索あるいは着想]、つまり格言や断章を意味する事もある。とある。知っている人が読んだら笑われるだろう。

パンセを知らなくてもパスカルの「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかに最も弱いものである。だが、それは考える葦である・・・」は知っている。勿論、無学なサルでも知っている。それと福音のメッセージに「人間には神のかたちをした空洞がある」と言われるのを良く聞く事がある。それとえっと思ったことがあった。それは「クレオパトラの鼻、それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう」。これは昔から聞いて知っていた。パスカルの言葉である事は勿論パンセからのものとは知らなかった。

これらは知識として知ってるということだけである。しかし、「神を知ることから愛することまで、なんと遠いのだろう」というこの言葉は考えさせられる。キリスト者として、聖書をそれほど知っているわけではないがそれでもノンクリスチャンよりは知っているだろう。物覚えが悪いといっても聖書や聖書関係の本を読めば知的なものは増えてくる。それに比例して愛が増えるわけではない。大袈裟な言い方をすれば無関係である。むしろ神の知識が増えれば増えるほど逆に愛のなさを認識するのである。ある意味で知的好奇心はセーブして、愛の実践にウェートをかけないといけないのかもしれない。しかし、身近にいる連れ合いにも時にとげの含んだ言葉を発する者としては、まさに難儀なことである。それとは別に、若者の読む?この本を年寄りになってしまったサルはチビチビと読もうとしている。最後まで読めるか39歳で亡くなられた著者の倍近い年齢で理解できるか楽しみである。