2008年12月27日土曜日

ある番組から

NHK「日本の現場」12月24日放送をたまたま観て感じたことを書こう。

「 滋賀県湖南(こなん)市にあるデイサービスセンター「らく」で昨年の冬、通ってくるお年寄りたちの「遺影撮影会」が開かれた。お年寄りの多くが「死」を自然に受け止め、準備を始めていることを知り、「折角なら遺影を残しておきたい」とセンターが企画した。撮影するのは、写真家の大西暢夫さん。お年寄りが語るそれぞれの人生にじっくり耳を傾けながら「最高の表情」を捉えてシャッターを切る。お年寄りたちも自分が生きた証し残したいとそれぞれが特別な思いでカメラの前に立った。認知症が進んだ妻と二人で撮影に臨んだ元企業戦士、脳出血の後遺症と闘う姿こそ最後の写真にふさわしいと不自由な体を押して会場に来た元医師。今年2月にその模様が放送されると、「自分も個性的な遺影を」という希望が相次ぎ、センターでは撮影会を開催してきた。“遺影”を撮った人たちのその後、新たにカメラの前に立った人たちを訪ね、フィルムに焼き付けられた人生の輝きを見つめる。」

これはNHKの照会文をコピーしたのだが実に示唆に富んだ番組だった。主に二つのことを思った。ひとつは死を身近に覚える年寄りに「遺影撮影会」を行ったことである。いうなれば重病の入院患者に死の話をするようなものだ。全てではないであろうが皆さん嬉々として撮られているのには感心した。誰もが葬式の遺影に不満があったようだ。変に若すぎたり、ぼやけたりしているから私も分かるような気がする。最後に飾る物だから自分でも納得したいのだろう。それに一人ではなく何人もいれば割りと気軽に出来るのかもしれない。それと写真家の大西さんに感心した。あのような写真を撮るのに一人2時間からかけては相手をリラックスさせてから撮る。お若いのにこれがプロかと思った。

伝道もこうでなければならないのではないだろうかと思わされた。まず相手の話を聞く、心ほぐれたら聖書の話をする。下稲葉氏もまずコミュニケーションが大事と言っておられてことと同じかなと思った。心していかなければならないことだ。