2009年1月28日水曜日

二者択一の世界?

生活の場で選択しなくてはならない時がある。これが信仰の世界でも然りである。分かりやすい例として偶像崇拝に絡んで、葬式などで、拝むか拝まないか、お焼香をするかしないか、あるいはお線香もある。以前はきっぱり断っていたが、大分前からここに偶像があるのだろうかと、ふっと考える時がある。。

このことを考えさせられたのは、福音書の中で、律法学者が食事の時に手を洗わないで食べることはない。汚れるからである。しかしイエスさまは何時もかどうかはわからないが、手を洗わないでも食べる。でもイエスさまが汚れたということは書いてない。ということは手を洗わなくて汚れることはないということだ。これは宗教的儀式、大袈裟に言えば欺瞞ではないだろうか。イエスさまはこの欺瞞を嫌われた。

聖書では「自分のために、偶像を造ってはならない。」と書いてある。しかし拝まないという意思表示の為の偶像としてはいないのだろうかという疑問が湧く。「わたしのほかに、神々があってはならない。」こちらがあって、後のことばがある。日本においては、広い意味でキリスト者でも幾つかの偶像を持っているように思う。葬式の時だけ偶像崇拝をしませんというのも、なんかナンセンスのような気もする。

オセロゲームのように白か黒の世界なら分かるが、生活の場では白と黒の間にグレーゾーンがある。躓きになっても如何と思いながら、この世の中と接点を持つためには、グレーゾーンに手を突っ込む必要があるような気がする。チョト勇気と確信がいる。それに霊性も問われるだろうな。