2009年2月22日日曜日

今日は

今日は4人の兄姉が用があって集いず。6人で集会をもたれたが、少ないのもいいものだ。フルでも少ないのにと思うが実感である。数が増える分だけ人と人とのコミュニケーションは薄くなってくる。それを補おうとすると組織的なことをしないといけないということを改めて感じた。人が増えることは幸いだが小さい群れに拘ることも大切ではないだろうか。現実の集会を見ていると違うよう見えるが、信者にアクティブな信仰を求めて、信者もそれに答えている人だけが残っている。という現実があるような気がする。それだけが祝福と見るのは寂しい。教会人は強者なのであるは言い過ぎか。もう一言言えば、クリスチャンということばの中に救われた者というよりも、罪人より一段上にいると意識があるような気がする。イエス様の時代の律法学者やパリサイ人とクリスチャンとどこかダブるのはひがみか。

福音書を見るとイエス様は大勢の群集に語っているところもあるが、基本的には個々人に語りかけているように見える。特にヨハネの福音書などはそれを感じる。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 luke:19:10  誰も見向きもしないし、誰も気がつこうとしない、そのようなところに目を向けるということは孤独な歩みである。イエス様だからできるが、わたしにはもちろん無理だが理念を失わないようにしたいものである。