2009年2月23日月曜日

映画鑑賞

家内が「雨なのでなんとなく気分が優れない」と言ったので、気分転換のつもりで映画を観に行こうと思った。3時からなので昼食後そのことを言ったら、「もっと早く言ってよ」と言われた。いつも唐突に言う。この年頃はせっかちで説明なしは当然。前の集会で年末から年始にかけて、イスラエル旅行をされ、その時に一人の姉妹のお父さんも一緒に行かれた。群馬の学び会でご夫婦にお会いしたので「自分だけ楽しんで」と言ったら、奥さんが一緒だと疲れるから、のんびりできてよかったと言われて、シニアキャンプのことを思い出した。配膳を手伝っているのを見て、よく動いてマメな兄弟だなぁと感心して見ていたがその後がいけない。さっさと食事を終えるのはよいのだが、自分のを片付けるだけでなく、同じテーブルのものを片付け始めたので、思わずまだ食べ終わってないと叫んでしまった。機会あるごとにこのことで冷やかしている。信仰持って間もなく、わたしより少し若いが集会の中の出来事で少し悩んでいるようだった。そういうの見ると集会の欠けているものが見えてくる。しかし誰かを責めるというものはない。ある姉妹のお父さんも自家製の美味しいコーヒーを出してくれるが、ドンドン片づけを始める。それを見ながら思わず苦笑いをしてしまう。わたしなんか彼らを見ていると序の口にも入れない。

前置きが長くなってしまった。長文は苦手、これで終わりそうな感じでもあるが。観た映画はウィル・スミスの「7つの贈り物」。タイトルに「神は7日間で世界を創造した。僕は7秒間で人生を叩き壊した」ともあり、最初ストーリーが読めなかったが最後のほうでやっとわかる展開になっている。超エリートの彼がスポーツカーで婚約者?とデートしている時、運転中に携帯でメールするが恋人にやめてと言われてもそのままやって衝突事故を起こす。恋人は勿論、相手の車の人たち合わせて7人を亡くす。贖罪のために7人の人たちに自分の持っているものあげていく、暴力を受けているヒスパニックの母子に自分の別荘と車を上げる。実の弟にも何かあげ、黒人の女性に肝臓を上げる。盲人のピアニストには目を、そして最後に心臓移植を必要な女性に心臓を、その女性と恋に落ちるが目的を達成する。自分の大切なものを一つ一つ与えていく、そして最後にいのちを引き換えに、イエス様とダブらせるつもりはないが、何かジーンと来るものがあった。

今「おくりびと」が話題になっている。あぁいう職業があるのははじめて知っただけでなく、亡くなった人に対してあぁも丁寧に扱う姿を見て感動した。いのちの大切さだけでなく、死者を弔う心の素晴らしさ、忘れてはならないことだと思った。父のときも母のときも悲しみはあまりなかったように思う。父のときは棺に伏せて、大声で泣く従姉妹の姿に周りの人たちの涙を誘ったが、私が平然としている姿に家内が後で驚いたといっていた。私は本質的に冷たい人間なのである。あったかいものがほし~い。

キリスト者でないときに観た「汚れなきいたずら」だったか、ぼろ屋のような修道院に戦争で孤児となった子供が引き取られる。その子は2階に上がってはいけないと注意されるが、好奇心が彼を2階にあげる。2階にあるキリスト像に裸で寒いだでしょうと布をかけ、お腹すいだでしょうとパンやぶどう酒をくすねて持っていく、そしてなんて名前かと聞くと「私は与えるのだ」と言われたことを今思い出す。勿論もう細かいことは定かでないが。イエス様は与えるだけで、求めてはいないなぁと。与えるものはないが、エミリー・デキンスンの詩を思い出す。

もしわたしが一人の心を傷心におちいらせないように
することができるなら、
わたしの生涯はむだではないであろう。
もし一人の生命の苦悩をやわらげることができるなら、
あるいはまた、
一羽の弱りはてている駒鳥を助けて、
その巣の中へ再び戻してやることができるなら、
わたしの生涯はむだではないであろう。

こんな形で生涯は無駄でなかったと告白したいものである。
勿論自分の力ではできないから御霊の働きが自由に働かれるように。