2009年2月26日木曜日

善悪の知識の木

聖書に、
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」2pet: 1:20 とある。しかし聖書理解は、きちんと聖書を勉強した者ではないし、へそ曲がり的性格もあって、発想は私的解釈的である。あるいは「聖書は誤りなき神のことば」と言って聖書のことばそのものを提示することへの反発かもしれない。

エデンの園に「いのちの木」と「善悪の知識の木」がある。なぜ「善悪の木」ではなく「善悪の知識の木」なのだろうか。知識に意味があるのかもしれない。既に善悪の知識を持ってしまった人間は、このことから解放されないのではないだろうか。これが正しいか正しくないか。絶えずこの結論を求めているような気がする。結果が悪であっても始まりは善なのである。聖書の論議も然りである。でも異端問題もあるしなぁ。単細胞過ぎるか~。