2009年3月2日月曜日

「幸せ」とは何か

私は本が好きだと言えば聞こえはいいが、活字人間なのである。昔の4コマ漫画に、虫干しで畳を上げた時に、敷いてある新聞を見つけて仕事そっちのけで一年前の新聞を読みふけっているお父さんの姿があった。見たのは若い時だったが、まさに私の姿である。だからと言う訳ではないが家内がウンと言わないし、私も時間がもったいないので新聞は取ってない。だから気が向いたときにコンビニなどで買ってきて読む。全国紙でも地方版はあるが、地方紙の信濃毎日を読んでいる。長野日報もあるがページ数が少ない。そんな中で、今日買った信毎にコンパスというコラム欄があって、そこに数学者の秋山仁さんが上記の題でコラムを書いていた。もしかしたら彼のコーナーなのかもしれないが。そこにこんなことが書いてあった。

「金融危機に入る前だったが、日本にあこがれて来日したインド人が『確かに日本は(物質的には)豊かでキレイな国だけれど、いい国だと思えない。なぜなら街で会う人たちが、誰も幸せそうな顔をしていないから』と語ったという」。そして最近ニューデリーに行った印象は、貧しいけれど元気で溌剌としていると書いてあり、翻って日本はどうか、大学生の大麻事件やインターネットの中にあふれる中傷や脅しの書き込み。いじめや引きこもりの問題、個々の問題ではなく、本質的な原因に目を向けなければならないはずだ。と書いておられた。

そう言えばマザーテレサも日本に来られたとき、同じような感想を述べられていたと思った。心を大切にしてきた日本人は、それを何処かに捨てたのかなぁ。何か大切なものが無くなっているという感覚はある。それが何であるかはわからない。キリスト者も内面が変えられてないと、この流れに乗っているのではないだろうか。霊性というと難しいが内面的なものが満たせるものが必要な気がする。それには価値観の転換というか「わが道を行く的」自己の価値観が必要だろう。具体的には難しいが。