2009年6月27日土曜日

松本サリン事件

 今日は15年前に松本サリン事件が起きた日である。
狂気というほかはない、理念があるわけではなし、感情の赴くままに行動した結果は恐ろしい結果を生むということを教えたくれた。そしてその下で何の疑問も持たないで従った優秀な頭脳集団、かつて為政者の中にこういう類の人たちが多く出てきたのだろうな、ソロモンの息子レハブアムも王となったときも然りだ。現代でもこういう優秀な頭脳集団は存在し、活躍しているのだろうな。

 前日フジテレビ系列で河野義行さんをモデルにしたドラマをやっていた。少し抑えた観があって、当時の映像とインタビューを交えてのいいドラマであった。ここで二つのことを教えられる。ひとつは前からだが河野さんの冷静な姿である。「命あるかぎり」のなかに「麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。」多くの人にとって過去を引きずって煩悶しているのにすごいと思う。人生は過去に生きるのではなく、前に向かって希望を持って生きる大切さを教えてくれる。

 もう一つは人は過去の知識の中にしか生きられないということだ。ドラマの中に刑事が農薬の調合からこうなったと捉えていたようである。実際もそうだったかもしれない。これはサリンという知識がないからこういう発想しかできない。誰もが経験することではないだろうか。だから松本サリン事件があったから地下鉄サリンはすぐ理解でき、オーム真理教の事件であることが分かった。

 福音書の中にイエス様と対立する律法学者やパリサイ人も、彼らの聖書や律法の完璧な知識の中にイエス様の言動が一致するものがなかったように思える。クリスチャンは聖書を手にして、ある意味でドラマの最初と最後を知っているようなものだ。だから論ずることができる。逆に知っているという思いが彼らと同じ大切な何かが欠落している危険性を持っている。それを避けるのには下に下にと降りていかれたイエス様の足跡を歩まなければ理解できないのではないだろうかと思っている。