2009年6月28日日曜日

考えるとき

 以前は好きなように書いていた。それでもこのブログは非公開のようなものだが誰かがアクセスすれば見れるものであるから、まったく日記のようには書けない。さらに明らかに読んでくださっている方を知って、あまり意識はないが書くことが制限される。でも読んでもらうというよりも自分の中にあるものを整理したいという意識のほうが強い。

 自分の中に何もないことをこちらに来て再確認された。ある意味で厳しいものである。しかし少し経つとそこから歩めばいいと思えるようになった。人が自分に何かを求めていようがいまいがそれはあくまでの相手の問題である。常に人は自分の利益を求めているものである。それが相手にあれば良しとされ、無ければ切り捨てるのである。そこに存在していることの大切は無い。そこにあるのは益を受けるか受けないかだけである。そしてそのことに振り回されている感がなかったかなと反省している。そこに自分は無い、人にどう見られているかが大切なのである。こちらに来るときに教えられた詩がある。  

「青春」 
サミュエル・ウルマン
青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しい意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心。
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ、
恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きに似たる、
事物や思想に対する欽仰、事に處する剛毅な挑戦、
小児の如く求めて止まぬ探究心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ、
人は全くに老いて、神の憐れみを乞う他はなくなる。
という詩である。
過去を引きずって生きることでもなく、過去の知識に生きる生き方でもなく、イエス・キリストに希望を置いて生きることこそ青春そのもののような気がする。すぐ良くならない坐骨神経痛、経験したことの無い経験が原点を思い返してくれたようだ。ヤコブと違った祝福を受けたような気がする。腰を打たれるとは大事なことだ。でも痛いのは注射同様好きではないが。