2009年9月15日火曜日

希望の国のエクソダス

 キリスト教関係の本は読むことがあるがそのほかの本はあまり読まない。しかし最近村上龍の「希望の国のエクソダス」を図書館で借りてきて読み終えた。村上春樹ほどではないがどこか難解だった。何かメッセージのあるものは理解でき難いから苦手である。

 昨日の「クローズアップ現代」は希望について取り上げていた。学としての希望学なるものがあることを初めて知る。そのなかで「希望の国のエクソダス」の中にあるポンチャンが国会で「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」といった言葉が文字として入っていた。

 現代の日本の姿を的確に示しているような言葉のような気がする。希望とは今どうであるかが問題ではなく、未来に何があるかが問題であるはずだ。そして志向しているのはみな違うものがあって当然である。短絡的かもしれないが「何でもある」ということは価値観の矮小化を見るような気がする。どんな生き方をしても良いではないかその人が満足して生きているならと思っている。でも現代はそれを許してくれない。狭い価値観に人を束縛しそこから外れるともう落伍者のように人扱いをしない。

 福音書時代のユダヤ人は非常に狭い価値観であるように思う。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と イエス様は言われた。そしてよく安息日に癒されたことが福音書に書かれている。そして彼らはそれを喜ぶのではなく、安息日を問題にしている。何が大切であるかが逆転している。「何でもある」日本は狭い価値観になりやすいのではないだろうか。「そのままのあなたが素晴らしい」という題の本がある。それは立派でなくていい、どうしょうもなくてもいい、イエス様が「 わたしがあなたを愛していることを知らせる。」 rev: 3: 9 このことを知ることが大切なのである。