2009年9月14日月曜日

続き

 諏訪大社の上社は諏訪市にあるがその近くに茅野市立の神長官守矢資料館という小さな資料館がある。ここは諏訪大社の神長官(神官)の守矢家が代々受け継がれた資料などが展示してある。そのなかに二つのものが興味を持った。一つは神前に献ずる75頭の鹿(今は頭だけの剥製)の一頭の耳が切り裂かれている。すぐ思い出したのは出エジプト記21章にヘブル人の奴隷が7年目に解放されるときの経緯が記されている。その中で「もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、
その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。 」と書かれている。奴隷であっても妻や子供と一緒にいる事を選択することは家族を愛しているからだろう。それは主人に一生奴隷として仕えることであり、これは大きなチャレンジではないだろうか。キリスト者に問いかけてくるものがあるような気がする。

 もう一つは「お贄柱」というのがある。先のとがった150センチ角の柱で昔はこの柱に少年を縛り、そこに短刀を持った人が現れて殺そうとするがもう一人の人が現れて助けて解放する。初期の少年は生贄として捧げられたが残酷なので止めたようである。上社の裏に当たる南に直線距離で地図上では4キロのところに守屋山がある。1650mあるが駐車場が1300m位のところにあるから実質350m、東京の高尾山は599mあるが同じような感じである。守屋(モリヤ)山、少年がささげられたとくれば創世記22章にあるイサクのことを思い出す。係員は鹿の耳を割くこともお贄柱がどのような意味があるのか分からないといっていた。聖書にこんな事書いていますよと教えてあげたかった。小さな駐車場に3台ばかり他県ナンバーの車が止まっていた。それなり興味を持っている人がいるのだなぁと思った。相模ナンバーのバイクの青年は熱心に資料を見ていたがどういう興味を持って来られたのだろう。