2009年9月22日火曜日

聖書と日本文化

 今朝、急遽行くことになったS 姉と共に長野集会のセミナーに行ってきた。三日間のセミナーの昨日からそして明日もあるのだがフルに集いたかったがそうも行かず今日のみである。知っている方々もフルの方や今日のみの方と色々だった。

 今まで学びといえば聖書からがほとんどで、文化とか歴史を話されても極部分的に語られていたように思う。責任者の説明で他でやってない事をやろうとしている事が語られ、今までお話を聞いていて頷ける。外部の方でその道の専門家が語っているのは説得力がある。

 6回のうちの3回で「日本の年中行事と基督者」、「日本の習俗伝統と基督者」、「基督教の日本的展開」という題で話される。正月から始まる行事をも見ても、幾つかの信仰が混ざり合っている。その変遷を見ると信仰というより人間のご都合主義的な要素も多いなぁと思った。これは日本だけでなく、欧米の基督教の行事にさえそのことが伺える。なんとなく分かっていたが結構いい加減だ。

 日本人の「願い」とか「祈る」という時は宗教的なものではないと言われたのには意外に思ったがなんとなく納得する。頭を下げる礼の社会であると言われたがそれに通ずるのかもしれない。日本人は裸足の文化、座る文化であり、靴を脱ぐことは自己放棄を意味する。モーセが靴を脱げ(出4:5)といわれた事はそうだったのかと始めて知った。そして日本人としては靴を履け(使徒12:8)であると。

 断片的にしか書けないが行事の由来、習慣とか伝統、そして日本人の気質、これらのことを理解して福音を語る必要性を強く感じた。「否定の伝道から肯定の伝道」へと言われたがまさにそうだと思う。欧米はその国の文化を受け入れていったが日本や南米は否定した伝道だったと言われ、それがマイナスである事は明らかである。質問にあった「国旗や何かに頭を下げる事はどうか」とそれは敬意を示すものであると言われ、偶像でないものを偶像視しやすい。それは偶像なるものが見えないことかもしれない。まさにサタンの思う壺だろうなと思う。自分も周りを見てもどちらかと言うと否定的であるから考えさせられる。ある意味でものごとを逆手に取っていくのもひとつの手かもしれない。疲れたがチャレンジを与えられて感謝であった。