2009年10月9日金曜日

一冊の本

 「異教としてのキリスト教からの脱却」と長い題の本を読み終えた。長野集会での講演会の講師の方が書いた本である(櫻井圀郎著、リバイバル新聞)。基本的にはお話されたことを確認させてくれたような気がする。集会としてはどう捉えるかはよく分からないが私としては説得させるものがあるように思えた。

 著者はなぜ、キリスト教は日本人に受け入れられず、日本社会に根付かないのかと問いかけている。そこに日本の政治的、歴史的背景があると書きつつ、それ以上に大きい要因は「キリスト教は日本に受け入れられない」と思い込んできたキリスト教界にあるように思えると指摘している。

 聴く側に問題があってもそれ以上に語る側は?との問いかけも必要ではないだろうか。どこか硬直しているものがないだろうかとの思いもある。パウロは私たち人間に福音がどうして必要なのか、その理由を神との関係が壊れてしまっていることを指摘している。その関係を回復してくださったイエス様をどう語るかで大分違うような気もする。ともすれば御利益的に語られているように思えるときもある。

 最近読んだ「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか」(古屋安雄著、教文館)と長い題の本も10年前に語られた「いま教会を考える」―召された者の努めー(渡辺信夫牧師)の講演もどちらかというと教会側に問いかけている。

 教会と集会は少し違うと思うが本質的には変わらないと思う。集会の信者がどういう問題を持っているかを取り上げていったらどこか本質的なものが見えてくるような気がする。そこから見えるのは福音とかけ離れたものが出てくるような気がする。少し否大分斜に構えすぎるかな。