2009年10月30日金曜日

またまた

 「言葉足らず」という言葉がある。私は言葉で相手に伝えるということが苦手である。苦手というより下手なのである。というかどこか言葉足らずでうまく伝わらないことが多い。
 東京に来て、当然のように周りの人たちが自分より知識があり、教わることがほとんどだった。それも全く知らないことも少なくなかった。そんな中で自分が知って他の人が知らないってことはなかったから自分が知っていることは他の人も知っているというイメージが出来上がってしまった。キリスト者になっても皆先輩であり、知識においても然りである。ここにおいても私が知っている聖書知識は他の人も知っている。そんな思いが出来上がっている。だから私が舌足らずでも周りがこういうことを言いたいのだろうと理解してくれた。それらもあってのことかもしれない。でも、それから40年たっているからこれは通じないか。

 このブログに珍しくコメントを下さった方がおり、そのことをここに書いて「問題意識を持っているのか単なるへそ曲がりなのか分かりません。」と自分のことを書いたのに、「自分」か「私」なりの言葉を入れなかったばかりに相手の方のことを書いたようにとられたようだ。たった一言のあるなしで受け取る側にとって天と地ほどの違いがある。許してくださるだろうが気をつけないといけない。

 罪と滅びを強調するかキリストの愛を強調するか、しかし愛をどのように語るか難しい所だ。植村正久は大恋愛をしないとキリストの愛を語れないそのようなことを神学生に語ったようなことを何かで読んだ。キリストの愛は人間的な愛を経験なしで知ることができるだろうかと思うことがある。人を愛する故に煩悶、苦しみはキリストの愛に通じるように思う。利害で付いたり離れたりする恋愛は信仰もご利益的にならないだろうかと思ったりする。