2009年11月13日金曜日

エゼキエルの神殿

 聖書通読でエゼキエル書を読んでいる。イザヤ書、エレミヤ書と読んでいると各々の個性が見えて面白い。言葉としてはイザヤ書が好きだが人間的にはエレミヤに共感を覚える。同じ大預言書といわれながらも置かれている状況とその人なりによってこうも違うものかと思うと面白い。そして読み手の側に与える共感は人によって違うのだろう。

 エゼキエル書は前の二書と違ったものがあるので面白い。37章や43章を読むとワクワクする。しかし40章からの神殿に関しては読んだだけでは判らない。建築家は図面を見て、建物をイメージできるといわれるが数字が羅列されているこの箇所を読んでいて、実際の建物などはイメージできない。元々こういうのに弱かったが年と共にさらに駄目になっているのを実感する。インターネットで見つけて、あぁこういうことかと少し理解ができた。それだけでも感謝かもしれない。よく言われる「今朝何を食べたかを忘れても今朝食べたことを忘れることは問題だと」、そこまで行っていないからそれはそれでいいのだろう。

 間もなく聖書通読は終わるが今回は読みづらさを感じた。設備管理の仕事をしていた時は半地下のほとんど人が来ない所でひたすら聖書を読み、3ヶ月で読み終えたのを懐かしく思う。仕事に行っているのか聖書を読みに行っているのか判らないないなぁと思った時でもある。10年も前の話だが今とは大分趣が違う。これからはさらに加速していくことだろう。難しいことは分からんから信じたはかりの時のイエス様に感動したようなことがそこから見えるかもしれない。違った形で聖書が面白くなりそうだとなるとよいのだが。