2009年11月15日日曜日

聖書通読を終えて

 今日マラキ書の残りを読んで今年の聖書通読が終わった。正直なところ字面だけを追ったり、端折ったりと内容的には褒められるものではないが取りあえず終わった。直接ではないがそんな読み方に何の意味があるのかと言われたこともあった。そんなの判るかと内心思った。でもこれからは聖書の読み方を考え直してみるいい機会であるかもしれない。

 いま、デボーションでテモテを読んでいて、1Tim6:15-16にこのように書いてある。
「…神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」
 賛歌として何も注釈をつける必要のない個所である。

 そして通読最後の小預言書を読んでいて、特に好きなホセア書の中にこのような言葉がある。
「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」hos 11: 4
 反逆の民イスラエルに対して怒りながら、放蕩息子に対する親のような苦悩が書かれている。テモテ書からは人間が入る余地はないがホセア書は実感として味わうことが出来る。親不孝をしてきた者であり、主に対しても真実でない者であるから、なんとも言えない慰めの言葉である。
 
 歌を忘れたカナリヤでも歌を思い出そうとしている。私も主に対して応答しよう。