2009年12月9日水曜日

ふっと考えたこと

 よくアクセスしているブログに集会の建物に関することで、ある方の手紙を紹介されていた。集会場の色々な形態や事情があることを少し分かった。長野県にある集会も幾つも知っているわけではないが自前あり、定期的に長期間に亘って借りている所、わが集会のように公共の建物を2,3箇所確保して借りている所と色々ある。他もこの三つに準じているのではないかと思う。

 10数年まえにオーム真理教が問題になって、宗教法人法の改正などが話題になっていた頃に当時弁護士で元最高裁長官の藤林益三さんが日経新聞にコラムを書いていた。宗教法人法の改正に着いて専門家の立場から書いていている。

 最後に「かく言う私は内村鑑三の流れをくむいわゆる無教会主義キリスト者である。」という書き出しで「私たちには宗教法人法は無縁である。金もなければ施設も組織もないからである。日曜日には借り物の会場で同信の友が相寄り聖書を読み共に祈り、先輩が話し、後輩も語る。会場費としてわずかな金を入り口のかごに投じ、これで会場費や講壇の花代をまかなう。皆手弁当である。先輩が死去すれば後輩が我流で葬儀を執り行い、後輩が結婚することになると先輩がその司式をする。
 私は昭和9年以来88歳の今日に至るまでに数十人の先輩を天に送り、数十組の結婚を司った。今も月一回は約一時間立って話をしている。こういうやり方もあるのである。だれも文句を言わず、不満があれば去ればよい。風通しはまことに良い。しかし教会のような施設もなく、専従者もいないから、宣教には不都合で、これが最大の悩みである。」と書いていた。

 この最大の悩みを教会は解決しようとして努力しているのかなと思っている。しかし無教会は教会とは別の方法でこの世に対してアプローチしているのではないだろうかと思うときがある。教会はどちらかというと世の中のことには余り関心を示さないというよりそれが信仰的と捉えている。無教会は世に対して時には強烈なアプローチをする。そして批判するだけではなくその中に入っていって変えようとしている姿勢が見える。聖書の使信をどう伝えるか、その捉え方で集会場というものの位置づけが変わってくるのではないだろうか。
 
 無教会の集会はそれ程知っているわけではないが会場を借りて集会を持っている集まりが多いのではないだろうか。今はどうか分からないが東京にある一つの集会は自前の集会場を持ち、8月に修養会を持って、そこでバプテスマと聖餐をやっているとそこに集う方から聞いたことがある。そこは宗教法人に入っているとも言っていた。私たちの集まりは「無教会でも右です。」と腰に手ぬぐいを引っ掛けている姿で笑って話されていたのが印象に残る。集会と同じ名前の書店を持ち、出版もされている方である。今は息子さんがあとを継いでいるようだが。

 今はそれでも内村鑑三がこう言ったとか言われるが昔は無教会は「師と弟子」、「聖書の勉強だけ」と一刀両断だった。中を少し見ると確かに言われることも事実の所もあるがそれだけでなく伝道に熱心な集まりもある。個人の力の大きさかもしれないが学校を創ったりしているし、その広さは諸集会の比ではないと思っている。教会の自を是とし、他を否とする否定的発想はわが性格とマッチしてとても居心地がいいがそれが正しいかどうかは別であり、むしろ逆なのだろうと思った方が正解のような気がする。