2010年5月21日金曜日

ニュースを観て

 夕方のニュースの見ていたら、奇しくもキリスト教関係のものが2件扱っていた。同じ局かどうかコマーシャルごとにTVのチャンネルを切り替えているので、それに何処の局かも分からない。一つは茨城の韓国人牧師の女性信者への性的暴力を起こしたことの裁判のニュ-スだった。このことは知っていた。以前いた集会では、車で男女二人だけの同乗は禁止されていて、ある時、ある方が「この俺が80のおばあさんと何があるか」と車で送るときに、誰かが乗っていくからと言われて、冗談半分に笑って話をしたことを思い出す。そこまでと思ったが、これくらい気をつけなければいけないのだろうなと今は思う。牧師が信者の相談に乗っているうちに深い関係になっていったというようなことを何かで聞いたことはあった。ホーソンの「緋文字」なんかはこのうちに入るのかな、どこか同情するところがある。最近聞く牧師の性的犯罪は非常識過ぎる。福音主義の牧師と聞くが、それが信仰と絡めるとは…。
 もう一つは特集として、「摂理」の大学生に勧誘しているニュースだった。大学の当局者がそのことで苦労されている姿をレポートしていた。当人は韓国の刑務所に入っているからもう駄目になっているのかと思っていたが強かに活動しているらしい。何で大学生がと思うが、以前、職場に統一教会の信者がいて話しをしていて、非常に真面目で純粋なところがあることを知って、勧誘されるて深みにはまって行くのが何かよく分かるような気がした。
 真理に耳を閉ざしている日本において何でカルト的なものが活動できるのか。逆に真理に対して無頓着だから活動しやすいのかもしれない。しかし、私たちの集まりは、自前の集会所を持っていない。公共の施設をその都度借りている。貸す側は宗教に対して、非常に敏感である。聖書の勉強会として借りているが、パン先などは明らかに宗教行事である。まだ10人に欠ける小さい集まりであるから何も言われないが、心配は心配である。事実、今度洗礼式を行うので場所を探してそのことを痛感した。株式会社であるが第三セクター的の施設を借りられることが出来たがキリスト教の洗礼というと途端に態度が変わったので、簡単に水に浸かって上がるだけ、あとは聖書の勉強会である事を強調して了解を得た。無理解とキリスト教のカルト的な働きがあることを日本の社会はしっかりと学習している事を教えられる。どちらにしてもこういう事件が公になると更にキリスト教に対する印象は悪くなり、警戒される傾向が強くなってはと心配になる。
 これらはカルトを批判することとは別にキリスト者の信仰と生活が一致していない一つの印ではないだろうかと、特にこちらに来てそのことを思う。神学も大事だが「地の塩、世の光」としてのキリスト者であることの大切さを教えられる。と書きながら書いている本人がその対極にあるのもなんだなぁ。