2010年6月16日水曜日

父よ、父たちよ

この間の軽井沢のシニアキャンプで、売店に置いてあった本の中から、今回のバプテスマのプレゼント用にと自分が読む「父よ、父たちよ」を買って来て、今読み終えた。出版された事は分かっていたが買う機会がなく、キャンプ場にあってよかった。著者をお父さんの実家に案内した事が最後の方にチョッと触れていたのに驚く。
男性が父親との関係に複雑なものを持っていることを以前から指摘されて、男性集会などで、そのことを扱っていたみたいだった。今回はその集大成のようなものなのかな。
自分は父親とのつながりの少なさからどう捉えて行けばいいのだろうと思いながら読んでいた。父は5歳の時に戦争から帰って来て、女だけの家族から、知らないうちに父が中心に動いている事に気付かされる。知らない男が何でとの思いは今でも覚えている。3歳くらいの時に父が何かで帰って来たことがあった。家族が囲炉裏を囲んで話をしている時、兄と私は父の軍刀をヨタヨタしながら支えているのをみんなが笑って見ていた。あの時はどこか和やかな微笑ましい出来事のように感じたことを今も良く覚えているがあの時とは違っている。物心が付いてきたのだろうか。それから信仰を持つまでは心は開くことはなかった。兄は最後まで駄目だったみたいだ。私たちだけでなく、この年代は同じような経験をしている人が多い、ある方はそれで精神的な病気にもなっている。弟が生まれて、可愛がる父の姿を見て、羨ましいとは思わなかったがこれが本来の親子の姿なのだろうと子供心に思った。だから弟だけは父に対する印象はすこぶるいい父親なのである。
殆どコミュニケーションのなかったことは、子育ての中に父親像を描くことが出来なかった。それで子供は「ほっといても育つ式」と「駄目駄目式」でやったから、子供は…。そのことだけではないのだろうが。それと私の中には自分を守ってくれる母親像はない。こんな所で培った性格はいいはずがない。そんな親が子育てしたら…。
父と向き合った時は、晩年の幼子のようになっている父だった。他愛もない言葉に耳を傾けて、頷いている自分を思い出す。
読み進む中で、もしかしたら父親のイメージは子供を通して見ることが出来るのではないだろうかと思った。自分はこういう父親であり、子供は自分をどう見ているかを思うと分かるような気がする。絡んだり、見えなかったりする父親像、これが解け、見えてきたら「父なる神」のイメージも大分変わるような気がする。