2010年7月23日金曜日

神様のカルテ

「神様のカルテ」を、2月に図書館で借りたのに、また、借りて読んでいる。主人公は夏目漱石が好きな信濃大学(信大)を卒業した若いお医者さん、どこか坊ちゃんの筆の運び方に似ているのは気の所為だろうか(夏川草介-夏目漱石)。松本にある総合病院である本庄病院(相沢病院?)と自分の住いである古い旅館を改造した御嶽荘の住人との交流を描いている。あと、行きつけの飲み屋さんかな。                            

三話からなる物語だが独立しているわけではない。その締めごとに新しい旅立ちが書かれているのかなと思った。作者がそのような意図で書いたかは定かではないが。

主人公の若い夫婦、挫折した若者、そして死を目前にした老婦人。全体に流れているのは信頼。それを失っている様な、今日の価値観なり、生き方に軽い問いを投げかけている様な気がしないでもない。


若い医師である主人公とプロの山岳写真家である奥さんは、仕事の関係で行き違いになっている。一緒にいることも少なく、お互いに、どこか仕事優先、その中にあっても深い信頼関係を培っている。若い夫婦に限らず、夫婦や家族はどのようなもので繋がっているのだろうか。それが無くなって、その関係はゆるぎないものだろうか。自分を見ると良く分からない。最初の結婚記念日をお互いに仕事の都合で祝うことが出来なかったが、後日、満天の星も下で、星を見上げながら、二人の絆を更に深めて、確かな歩みを進めていきそうな雰囲気で一話は終わる。

次は、
住いである御嶽荘の住人である売れない画家の男爵と大学院生の学士の交流がまた面白い。酒を酌み交わすだけのようだが、それが深い。この画家は描けばすぐ売れるのに、お金や名声の為に描こうとしないみたいである。実は学士も、大学受験に失敗し、放浪の果てに、信州の田舎町に住み着いてしまったニセ学士なのである。しかし、博識とニーチェ研究では優れたものを持っている。母親は息子が東京で勉学に励んでいると信じて、何時か勉学を終えて帰ってくることを楽しみに待っている。また、母親を喜ばせようと願っていた息子でもある。この現実を知っているのは、学士の姉だけ、母が亡くなったことで、学士は絶望して死を選ぶが未遂に終わる。主人公は病院のベットの傍らで「学問を行なうのに必要なものは気概であって学歴ではない。熱意であって建前ではない。大学に行かずとも、あなたの八畳間はまぎれもなく哲学の間であった。その探求の道に何を恥じ入ることがある」と学士に説教をする。

学士は姉に促されて、新しい歩みを始めるために、田舎に帰る決意をする。田舎に帰る前夜、4人で学士の部屋でお酒を飲むが、時間を前後して男爵と奥さんは席をはずして、朝まで酔いつぶれたのは二人だけ、朝になって、目を覚まして、ふすまを開けると廊下いっぱいに桜の花が描かれていた。男爵と主人公の奥さんが、徹夜で絵の具まみれになって、学士の門出を祝ってくれた。

最後に、
大学病院で余命一ヶ月の宣告を受け、治療を断られた老婦人を受け入れて、最期までみとる。
若くしてご主人を亡くされ、あまり恵まれた人生ではなかった。延命治療をせずに彼女の意向に沿うように配慮してくれる。死を目前にした病院生活であったが彼女にとっては至福のときでもあった。1220日が誕生日、看護師がさりげなく彼女の希望を聞くと、ご主人との思い出があるのか山を見たいという。ベットから車椅子に移動するのも禁止されている状態なのに、看護師たちの手回しで、誕生日に車椅子に乗せて、病院の屋上に行くことを、主人公の立会いの下で許可せざるを得なくなる。彼女は北アルプスを眺めながら、彼らの配慮に深く心打たれる。そして、ご主人との思い出の品、「文明堂のカステラ」を主人公の奥さんが探してきて、彼女にプレゼントする。うれしさの余り彼女は絶句して言葉を失う。現実には出来ないことであるが、作者の医者としての理想を描いたのかもしれない。

一分一秒でも命を延ばすことが治療ではなくて、命の尊厳を彼女を通して語ろうとしているみたいだ。 亡くなった後で先生宛への手紙が見つかり、その中に「病むことはとても孤独なことです。」と書いている。病まなくても人は孤独になる時がある。

イエスさまが、税金取りのザアカイや、人の目を避けて生きているサマリヤの女に声をかけたのは彼等が孤独であったからだろう。しかし、声をかけたのは「あなたは孤独ではない。私がいる」と語りかけているような気がする。だからこの二人は、新しい歩みが出来たのだと思う。