2010年9月23日木曜日

このところ

先日のテレビで、松本サリン事件の被害者の河野義行さんが、ご自分の山荘でコンサートを開いたことがニュースで流れていた。奥さんが亡くなられて3年、一つの区切りで鹿児島に引っ越し、釣りなどを楽しんで老後を過ごすそうだ。この方は、松本受刑者をさんづけで呼ぶ、それと事件のときに運転していた実行犯の人が植木や家の手入れをすることを許し受け入れて、そのときは家で酒を酌み交わすこともあるそうだ。彼が来ることは、息子さんには抵抗があるようだが。

昨日は菅谷さんが賠償請求の申請を裁判所に出されたこと、村木元局長が復職したことをテレビで見る。大勢の職員に拍手で迎えられているのを見て、長妻大臣の初登庁のときとは、大分違うなと思った。驚くのは主任検事の行動である。しかし、程度の差はあっても、これは日常茶飯事的な出来事ではなかったのではなかったのではないだろうかと思った。偶々大きな問題になっただけで…。人間の価値なんか戦争前は赤紙一枚の価値しかなかった。その当時は馬の方がはるかに価値があったのだから、それから半世紀ちょっと、その根底にあるものが、どれだけ変わったかは疑問である。 全部を右倣いにするつもりはないが。

河野さんも村木さんも最初の報道を聞いたとき、何の抵抗もなく当然のようにテレビのニュースを受けいれていた。有力な国会議員が懇意にしている人から頼まれて、役人に圧力をかける。誰も損をするわけでもない、むしろお互いに恩を売ることができる。そんな単純な構図で納得していた。マスコミの取り上げ方もおかしいのだろうか。何か意図がってこうなるのだろうか。或いは我々の思考がそのようになっているのか、立場は違っても思考は同じような気がする。我々の正義は、真の正義ではなく利で動く正義、エセ正義であるのかもしれない。

尖閣諸島や竹島の問題を見ると、ナショナリズムを見る。日本は、昔は島国で外国から守られていたが、これから防衛となると大変だ。自分もそうだが、日本は内弁慶的なところがあって、外圧に弱い。内側に説明する以上に外に向かって主張していかないとと思う。それと人と人のつながりが大切であり、色々な形の交流に力を入れるべきである。東京、三田にある船舶振興会の建物の前に笹川良一本人がお母さんを負ぶっている銅像がある。この方は「世界は一家、人類はみな兄弟」を唱えていたように記憶している。国と国があるから争いがある。これであったら、せいぜい兄弟喧嘩、戦争にはならない。この方の識見は高い。あの戦争で何をやってこられたかはわからないが。

世界史はもちろん日本史もよくわからない。日本の近代史も然りである。しかし、断片的な知識から、国同士の大きな意図の前に、小さな事件が発端となって、戦争になっていくような気がする。正しい理解かどうかはわからないが、国の正義は汎ではなく個の正義であると思っている。国に限らずすべてか?自分の利のための正義は、どこにでも見ることができる。ある面で、ヒューマニズム同様危険なものを孕んでいるような気がする。

神の正義は、
イザや53章にイエス様の姿を見る。人には真似のできない姿である。力ではなく、弱さを。能力ではなく、無力を。貴さではなく、卑しさを、高さではく、低さを。仕えらえれれることを求めず、仕える道を選ばれた。この中を神の正義は貫かれていった。真の解決の道はここにしかない。