2010年10月9日土曜日

御柱

長野の善光寺のご開帳と諏訪大社の御柱際は7年に一度行われる。7年に一度の大祭の所為か、実に官民?一体となって行っているという感じを受ける。善光寺はわからないが、諏訪大社の御柱祭は、諏訪人の中に自然というか当然のように、受けいれられている。というより組み込まれているように受け取れないこともない。

元々信仰心はなく、田舎にいる時には、お盆のお墓参りに行かんと言って父に怒られたり、村祭りもお店が出て人で賑わった事が楽しかった記憶はあっても、信仰心の信の字もなかった。その神社も鍵がかかっていなかったりして、2間四方しかないようなものだったがそこで隠れんぼをしたりしていた。ある時、大人が頭を下げているものにどんなすごいのが入っているのだろうと、中にある小さな祠?の扉を開け、紙に包んでいるものを一枚一枚、解いていってみたら丸い真鍮のプレスしたようなものだったのでがっかりした記憶がある。こんなことが大人にばれたらただですまないことであろう。それからあんな物に頭を下げることが出来なくなった。生意気な子だった。しかし、内村鑑三が神社の前を通ると自然に頭を下げたくなるようなことを何かで書かれていたが、明治神宮などに行くとどこか荘厳さを感じるから頭を下げたくなるから気持ちが分かるような気がする。神田明神も湯島天神もそんな雰囲気ないなぁ。村の鎮守の神様も然りである。

御柱の年は、地域にある各々の神社も諏訪大社と同じ御柱祭をやる。先日「山出し祭」が行われ、山から御柱を曳航し、今日は「里曳き」といって山から里へ、そして神社に曳航する。朝から夕方までの一日がかりである。町内の組の役員をやっているので名前は載っているが参加していない。綱の飾り付けを頼まれて、組の中のところはやったがそれ以上はやるつもりはない。飾り付けくらいは祭礼というより行事の類と思っている。人が大切にしているものをないがしろにするつもりはない。むしろ大切にすべきだと思う。しかし、神殿の前に行って、祭礼をしないとなるとそれを否定することになる。だから行かないのである。これと違うがお焼香は偶像崇拝というが本当にそうだろうかと思う。実際はTPOではあるが。

長野県にある幾つかの中の歴史のある市であるが現状は村である。観光という面もあるから一概に言えないが政教一体である。市というより自治会が主体であるが一体のような感じを受ける。それでも色々強制していないところはその辺の配慮があるのだろうか。

もう35年も前に、溝口正さんが「自治会と神社」という本を書かれた。そこで自治会との争い、市との訴訟問題等が書かれている。日本人の民族性、全体性を大切にして、個をないがしろにする体質を指摘しておられたが、今も地方にいるとそれを強く感じる。それと戦う力も気もないが、このようなことは教会も論外ではないような気がする。個を大切にする教会、異質なものを受け入れる教会、そんな教会を思う。イエス・キリストはその個を大切にした。この方は無教会系のキリスト者である。