2011年1月11日火曜日

新年学び会

恒例の群馬での学び会に行って来た。行きは更埴回りで200キロ、帰りは和田峠を通って150キロ、運転しているときはそれほど感じなかったが夕食を食べてテレビを見ているうちに眠くなりそのまま2時間ばかり寝てしまった。それだけ疲れていたのだろう。前は勇んで出かけたが今はどうしようかと行きつ戻りつしているのをみていると疲れと共に歳だなぁと思った。

「大いなる福音宣教のために」のテーマでシンガポールの集会の兄弟が語られる。キリスト者の使命は宣教、そのために明確なビジョンが必要なことを語られた。もちろん海外宣教とか伝道者になるというのではない。話の中でも宣教地は自分の置かれているところとも語っていた。

メッセージ1は宣教ー原則
パウロがどのような宣教の思いを持っていたかをロマ書を通して語られた。
1.私は負債を負っている。
2.用意ができている。
3.私は恥とは思わない。

神の宣教プランは、
1.大宣教命令
2.聖霊による召し
3.宣教のための準備

宣教の奉仕のための資格
1.霊的な資格
2.実際的な資格
3.健康の面での資格、肉体的、精神的

そして送り出す側の責任と個人としての資質及び準備を語られたように思う。

メッセージ2は「宣教ー実践」
1コリ9:22のみことばから「魂を救う、何んとかして、何んとしても」と、そして初期に福音がどのように広まって行ったのかを話さる。今日福音伝道のアプローチをどのように進めたらよいのかを具体的に話され、最後に働き人が直面する諸問題を話された。

救われて感謝できればオンの字の信仰が如何に次元の低いものであるかを思い知らさる。自分を含めて周りにそれすらもできない人がいることを思うと考えさせられた。自分にもこれがあれば、あれがあれば出来るのだがと思うときがある。そうではなくて「主に対する熱き思い、救霊の渇き」であることを教えられる。 二つとも欠けている老いた体に何が出来るかと問われると答えられない。しかしこの問いかけにどのように答えていくかを考えなくてはならないと思った。

最後の分科会には、M伝道者の「ひとりひとりのクリスチャンが宣教の担い手になるには」に参加して、 宣教の前提、
1.主の命令
2.主の渇きを知る
3.実行
実行では、担い手として
1.権利を捨てる
2.十字架を負っているか
3.服従しているか
と語られる。特別な働き手としてではなくキリスト者として当然の姿勢であろうと思う。色々な面で余りにも欠け過ぎている。しかしチャレンジしてみたい。 そうでないとその先はないような気がする。

メッセージはもちろんだが久々に会う兄弟姉妹の交流も楽しみの一つである。最初に会ったとき大学生であった二人の兄弟は年代の差はあるが、ひとりは神学校を出て伝道者となり、またもうひとりの兄弟は集会の責任を取っている。そして責任者を降りた兄弟もいて、時代は若い人たちに移りつつあるのかもしれない。この人たちの姿勢がこれからの諸集会の方向を示してくれるだろう。若者に期待するが何もない老いも捨てがたい。主がどのように扱われるかを楽しみにしたいものである。