2011年1月12日水曜日

準備をしていて

いつもメッセージの準備をしていて感じることは、聖書のこの箇所からとかこのことを話そうと準備すると少しづつずれてくる。メーンの部分が脇になるかさっと終わってしまう。準備をしていて思わず苦笑いをしてしまったりすることもある。今回も然りである。ヤコブがペヌエルでのある人との戦いを中心に話をするつもりだった。もちろん中心にはなったが、広がってアブラハムが父親のテラとウルからカナンに向かって出かける話からになってしまった。プロジェクターで地図を写して説明するといいのだがそれがないので地図をプリントして説明した。施設にあるのを借りればいいが使い方も分からないしそのうち購入したいと思っている。

準備していて思わされることに意外な発見をすることがる。意外かどうか分からないが創世記は50章ヤコブの誕生は25章にそしてその死は50章に書かれている。エサウの子孫やヨセフの物語が10章くらいあるが創世記の半分に渡って書かれているのを見るとすごいなと思う。信仰の人アブラハムやヨセフに感動するがヤコブはどこかずる賢いのでいい印象は受けない。しかし12部族の祖であり、神に嘆願する人はいても唯一神と戦った人である。ヤコブはアブラハムよりもっと示唆に富んだ人物のような気がするがどうだろうか。その辺が分かったらいいなぁと思う。

ペヌエルでの前後は彼のターニングポイントでもある。兄エサウを恐れて綿密に周到に準備しながら、しかし彼には平安を得ることはなかった。宿営地に休みながら夜中に「ヤボクの渡し」を渡っている姿を見るとそのことが分かる。でも33章にはいると彼はエサウと会うためにみんなの先頭に立っている。以前だったら一番最後にいたであろうにと思う。何を恐れ何を恐れるべきでないかを知ったのではないだろうか。

かつての経験から兄エサウは自分に危害を加えるものと思っていたであろう。そのために周到に綿密にそして不安の極致にあったであろうにエサウが全くそのような思いのないことを知って、すべてが徒労に終わった。しかしこんなパターンは程度の差はあっても日常茶飯事のことのような気がする。「人を恐れるとわなにかかる。」prov:29:25 や思い煩いは大半がこんなもののような気がする。湖上のペテロを笑うことができない。準備しながらこんなことを思いながらも私もまだペヌエルの前のヤコブ状態であることは否めない。神と戦えるときはいつか或いはないか。