2011年2月11日金曜日

春が 

今年は雪が少ないなぁと思っていたら昨夜から少し降りだして今日一日降っている。今冬二回目の雪かきである。東京では4月初め頃によく大雪があった。これは春を告げるひとつのシグナルのようなもので、冬の最後の足掻きのようにみえる。三月いっぱい寒いが、今日の雪を見ているとそんな感じを受ける。この雪は関東地方にも降っているようだ。

日本人は冬の最中(さなか)、春はまだまだ先なのに、新しい年を迎えるに当たって迎春ということばを使う。これは厳しい冬の先に暖かい春があることの希望なのか、あるいは現実を直視するのを避けているのかどちらなのだろう。あるいは両方かな。

聖書は、私たちに希望や喜び、そして平安を与えてくださる。現実が厳しいから未来に希望を与えてくれるのではなく、たとえ現実が厳しくともその現実の中に希望を平安を与えてくださる。それは「神の愛」がそうさせてくださる。

「愛は…すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません。…いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのは愛です」。(Ⅰコリント13:4、6、7、13)と。        

ことばだけでなく、その裏づけをイエス・キリストの十字架を通して与えてくださった。

「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです」(ⅠコリントⅠ:18)と。だから「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。

人生の黄昏は何かと厳しいが永遠の春はすぐ近くに来ているのである。