2011年2月24日木曜日

雑感

ベルリンの壁やソ連の崩壊は誰もが予想しなかったできごとであった。それからか共産主義の崩壊が始まって、中国は以前からだが北朝鮮も抗議デモがあったようなニュースがあった。知識があるわけではないがこの二つの国も現状維持はないだろうなと思っている。意地悪ばあさんの漫画に「これから国際情勢を勉強しなければ」と、新聞を広げるのだが、結論は「スターリンもチャーチルも(だったかな)永くないなぁ」だった。回りがギャフンだがわたしも似たような程度だ。

30年も前に山本七平氏が「勤勉の哲学」という本を書いている。「副題に日本人を動かす原理」とあって、鈴木正三と石田梅岩という二人の思想から書いている。内容は忘れたが、帯に「日本人が働くのは金銭のためではない。労働を芸術にまで高めた、四百年の伝統に基づく独特の『哲学』のためである」と書いている。

わたしらの世代は「勤勉」という言葉はからだに染み付いているのではないだろうか。農家に育ち、小さい時から働いてきた者にとって、働くことは時として喜びにつながるものがあった。物を造り出すこと、あるいはお客様のニーズに答えられて喜んでもらえることがうれしかった。その対価としてお金をいただくのである。貧しくとも心にゆとりのある時代だったのかもしれない。儲けるという発想は少なく、というっより才覚がなかったといった方が正確かもしれない。この間のニュースで、30代の若者が生活保護を受け、生活保護者は治療費は無料らしい。具合が悪いと言って睡眠薬を処方してもらい、それを売って、ギャンブルなどに使っているみたいだった。金額は忘れたが結構なお金になるようなことを放映していた。怒りを覚えるというよりも悲しくなった。彼だけでなく社会がそのような方向に持っていったものも少なからずあるのだろうなと思う。額に汗して働くのは罪の結果であるが、それだけではなく喜びも付随してあるものだと思う。働くことがに喜びではなく、欲望を得る手段にしてしまったのかもしれない。あるいはその根底に哲学の無さがあるようにも思える。どこかの国のようにお金だけの発想に成り下がってしまった感も無きにしも非ずである。

世の中の動きも混沌としてきており、政治を見るとその最中にあるのかなと思う。現実の厳しさが増して、弱者であるわたしらは、もろに直撃である。しかし明治、戦後と混沌としたところから出発したが、そこに「人」がいた。今も「人」がいる。「勤勉」と「誠実」を失わなかったら、これからの日本に悲観することはないだろう。「井の中の蛙大海を知らず」的発想である。日本は、創造の神を拒む民族であるが神に選ばれた民族でもあるように思う時がある。すべての民は救いの対象ではあるが。