2011年3月2日水曜日

当然のように

先日テレビで18歳のときに事故にあって、それ以前の記憶を失った方が出演していた。家族を含めて人の名前の認識が全然できない。そして日常生活の記憶も失って、お腹すいてもどうすればよいのか、まさに生きる術の全てを失ってしまったから赤ん坊以下になってしまった。家族や周りの戸惑いは想像を超える。本人と家族の忍耐と努力、特にお母さんの働きが大きかったようで、少しづつ回復していったようである。

今、聖書を完成された書として手にして読んでいる。現在のように完成されたのは4世紀頃といわれる。そして聖書が個人の手に入るようになったのは印刷ができるようになったこの近世のことである。それまでは聖書は教役者の手にのみであった。多くの人たちの手を経て、戦いがあり、多くの血が流されているものを手にしている。

福音者の中にみるユダヤ人は強烈な選民意識がある。罪人として退けている人々はそれなりの生き方をしているのだろうが、彼らに対する一顧の哀れみもない。律法を手にして、神を自分の手の内に握っているようである。先人たちの命を賭けた働きがあって、今日の聖書がある。当然のように、あるいは選民意識をもつような気分になるが心していかなければならないぁと思う。