2011年3月15日火曜日

収束、そして復興 

東京に住んでいる息子から電話がって、スーパーに食料品がなくなっていることを伝えてきた。地元のテレビでもそのようなことを流していたが、スーパーに普段のように買い物に行ったら、入荷しなかったのか買い占めたのか何もないコーナーが幾つかあった。明らかに買い占めたのは麺類、お米(一人10キロとあるのに二つ買おうとしているおばあさんに出会う)、驚いたのはトイレットペパーが亡くなっていたことである。オイルショックのときを思い出した。お米や紙類は不足することはないのに、人はパニクルとこういう風になる。東京在住のkさんと電話で話をしたら、スタンドは長蛇の列で給油が出来ない。道路が混んでいるのかなと思ったらその所為だったといっていた。駄目なら高速道路のスタンドでいれようかなと思っているといっていた。仕事している人は大変だ。こちらでも被災地優先で15リットルまで、東京ナンバーなので、もう少し入れましょうかと言われたがこちらに住んでいるからいいと断る。年寄りふたりだからどうにかなるが赤ちゃんや病人がいる人たちは、品物が欠けたら大変だろうなと思う。

パニクラないで、被災地の復興に協力しよう。

このようなできごとを見ていると私たちはどのような土台の上に立っているのだろうかと思わされる。そしてその土台がいかに脆いものであるかを教えてくれる。
人間の英知は、復興を成功させてくれるだろう。人間の英知の上に胡坐をかいていたのが、原発の問題ではないだろうか。内村鑑三は「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」といわれた。また「われは聖書と天然と歴史とを究めんかな、しかしてこれら三者の上にわが信仰の基礎を定めんかな。」ともいっている。この言葉は今も生きていると思うし、学ぶという姿勢は謙虚でなければ出来ないと思っている。それを・・・。

このようなできごとがあると終末を思い浮かべる。そしてこの聖書のことばを思い出す。
「イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。『先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。』 すると、イエスは彼に言われた。『この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』
「「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」 マルコの福音書13章1-2節、4-8節

終末ではなく、その前兆を教えてくれる。神に立ち返るチャンスを教えてくれているようである。そして地上が全てであれば悲惨そのものであるが一過性のもであれば大分趣が変わってくる。以前、フジテレビのキャスターだった山川千秋氏ががんで亡くなる前に「死は終わりではない」という本を書かれた。死は終わりでなく、労苦を解かれて、永遠へのスタート台に立つのである。