2011年3月22日火曜日

汚染

専門家はすでに懸念していたであろう放射能汚染が始まった。
放射能のニュースにならない前に原発が収束してくれれば良かったが収束はまだまだのようだ。来るべきものがきたというより、隠されていたものが露になってしまったような気がする。それでも今のうちに収まってくれるといいのだが、電気次第?

放射能濃度がニュースになって、ふっと思ったことは、日本は公害の先駆的な働きをしている。水俣病、四日市喘息を思い出す。川崎の臨海に工場群があったころ排煙が、20キロから上流の中ノ島あたりに降りてきて、あの一体は空気が悪かった。家内の姉夫婦が中ノ島に社宅があって、一時住んでいた。長野県の駒ヶ根に転勤になり、また東京に再転勤になったとき、もう空気の悪いところには戻りたくないとの理由で会社を辞めて、それ以来信州に住んでいる。モクモクと上がる煙が多摩川の土手から見えたのを今もよく覚えている。 あの工場群もなくなって、様変わりしたようだが。

水俣病は、猫や住民の奇病がチッソの廃水に含まれている水銀が原因だと指摘されていたのに企業ぐるみでこれを抹殺していった。そして排水を垂れ流し続けてた結果が今も苦しんでいる人がいる。あそこに企業は勿論、自治体も住民も企業優先の姿を見る。

これは日本だけではない。小学校のときに女生徒が頭を白くしたDDTは私たちの世代には懐かしい。あのDDTの危険性をレイチェル・カーソンは「沈黙の春」で指摘している。私が生まれる一年前に製造され、安価で、効果も大きかったが、彼女は環境汚染や人体に悪影響を与えていることを指摘した。企業は勿論、公の機関、同じ科学者からも批判され、無視された中で、まさに孤立無援の中で出版された。

人間が造り出すものは二律背反的な要素が多いから難しい。原子力も然りである。今回のできごとを通して、新しい何かが生まれてくることを期待したい。最終的には、人は神に立ち返らなければ、解決の道はないと思うが。観念的かな・・・。