2011年4月7日木曜日

三つのうめき 

ロマ書8章に被造物、人(キリスト者)、御霊の三つのうめきが書かれている。特に被造物のうめきでは高橋三郎先生のロマ書講義の解説の中で強い印象を受けた。御霊は贖うためのうめきであり、被造物と人は贖われるためのうめきである。 聖書を含めて知識は素人であるが、今回の地震や原発事故を通して、それなりに色々考えさせられ、また教えてくれる。被災者や原発の現場の人たちの痛みとか苦しみを思い浮かべるが、しかし本人でなければ、痛みや苦しみはわからないだろうなと思う。安易な同情心は当事者に対して失礼、ロマ書十二章十五節に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあり、傍らに立たなけえれば分からないことだろうなと思う。 被災地の中で、原発の現場や背広組の中でのうめきが聞こえるようである。しかし考えてみるとこのうめきは自ら選んだ結果ではないだろう。人間がもたらしたものであり被造物はその選びが出来なかった。神は被造物を人間の添え物として創造されなかった。かれらのうめきは人間の比ではないような気がする。真の贖いなくしてうめきからの解放はないであろう。一つ一つが産みの苦しみにつながるものではないだろうか。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ロマ8:22)