2011年5月1日日曜日

原発で思うこと

最近、被災地の方々が復興に向けて行動している姿をニュースで見る。その道のりは実に厳しいなと思わされるがみな明るい。点のような働きであるがこれが点と点が線になり面になっていくのだろうなと思うとうれしい。映像は瓦礫の山々であるがそのような中に希望が見えてくるから不思議だ。

それに引き換え、原発で避難されている家々の映像が映し出されると、のどかそうであるがそこにあるのは放射能の恐ろしさを教えてくれる。そこには希望の希も見い出せない。しかし、原発の出来事を見ているとあらゆるものが凝縮しているようにも見える。イゴをぶっつけあっている人たち、それと関係なく命を賭けている人たち、ドサクサに紛れ込んで悪さをする人たち、そして我関せずで過ごしている人たち(我も)を炙り出さしてくださっているようである。

牧師の方々で原発に関して真剣に取り組んでおられる方がいることを教えられて、少し前向きで考えるようになった。原発云々も然りだがそれに付随したものにも目が行く、電力の浪費、リニアの問題も然り、幸か不幸か諏訪地方は通過しない。南アルプスにトンネルを掘って大丈夫か、新幹線や東名高速が有ってもまだ他の輸送機関が必要なのか、誰がそれを求めているのか等等。それと巨大な電力を必要とすることを知るとこれはやめるべきだと思うようになった。羽田成田間とか短い距離ですばやく輸送できるこんなところには最適ではないかなと素人なりに考える。利権が見え隠れるするのは穿った見方か。

高い所に立たなくてもキリスト者としてどう歩むべきか、どのような識見を持たなくてはならないかを考えさせてくれているような気がする。だからと言って答えを見え出したわけでもない。信じたら天国にでは済まされない時代に来ているような気もする。今日目の前にあるのはキリスト者が避けているマモンと向き合うことが必要な気がするがどうだろう。貧しい者の拘りかな。