2011年5月3日火曜日

あこぎ 

福島原発のことで幾つかのブログをアクセスしている。原発は危険を伴うものだからそれなりの安全確保をやっているものと思っていたらそうではなかった。電気事業連合会の原発の安全確保に万全なんて画餅に過ぎないことを知る。企業として来るかどうか分からない地震や津波に対して巨額の金は掛けられないだろう。しかし原発はなぁ。ダルマ状態でも自己終息できるものであれば別だがそこまでは行ってない。

最近では、東電の電力事情の発表がうそであることが書かれている。コメントを読むと会社と国での原発ありきの発表らしい。ここまで往生際が悪いのかと思う。やるなら安全確保をもっと確かなものにしてから言えといいたくなる。そしたら胸を張っていえるだろう。インチキ企業じゃあるまいし、一流企業と国が姑息な手段をするなんて、情けない。まさに末期だ。国民というより、地元住民をなめている。お金で解決しようとする風土を作ったのは誰なのだろう。

ここから見えてくるは福島の原発被害者は相当いい加減に扱われるなぁと思った。彼らが一ヶ月も過ぎて頭を下げているのを見て感じる。それに謝ったって彼らは何の不利益を得ているわけではない。保障にしても何も約束していない。最善なんて言ったて、これしか出来ませんと言ってお終いになるのである。

チッソのパターンとダブルというよりまったく同じ轍を踏んでいる。放射能汚染は水銀中毒の比ではないはずだ。何でこんなことを繰り返すのだろう。砂糖に群がるアリが多すぎる。そしてこれらと戦っているキリスト者は少ない。なぜなら彼らの多くはそれらを享受しているから難しいだろう。それに「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」からとの来世感もあるし、あまり他者の痛みの分からない蛸壺的信仰者としての言葉は説得力はないが。