2011年5月20日金曜日

生きること、生活すること

福島の原発事故のことで時折、関連といってもごく一部であるがブログを読んだり、ユーチューブを観たりしている。お陰で原発のことが少し分かるようになった。原発の機能そのものよりも、これができる経緯とか、これを支えている環境とかを知ると驚くことばかりだ。あるいは当然なのかとも思わされる。企業が大きければ、国が深く関わっていれば、さらに根が深いような気がする。

旧約聖書に偶像の神として、バアルとモレクの神が書かれている。新約では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ24b)という富(マモン)がある。バアルは豊穣の神である。それは作物だけではなく、性的なものを含んでいる。人々は知を求めた結果の神であるかもしれない。モレクは幼児を犠牲にささげるものである。生命を奉げるという残忍さの中にそこから生命を生み出そうとしたのかもしれない。これは誤った愛から発しているのかもしれない。最後はマモンである。これは書くまでもなく、今日蔓延している神である。

真の神を見失った人間は、この三つの神を必要とした。豊かさであり、愛であり、富である。この三つがないと生きていくことはできない。これを数学の方程式のように当てはめていけば、問題点は明らかになる。そんなことを考えていると「生きる」ことと「生活する」こととは別の次元であることがわかる。

原発に群がるのは「生活」のためであり、反対する人たちは「生きる」ためであることが分かる。生活するために原発をあめのようにぶら下げる為政者は最低の為政者である。貧しくとも「生きる」というビジョンを与えることの出来る為政者は何処に、と書きながら生活していても「生きている?」と問われると返事に…。