2011年5月23日月曜日

ホーキング博士

ある牧師のブログにご自分を無学歴・無資格と紹介されている。そんなことはないと思うが、私なんかはそれに加えて無教養ときている。何もないと身軽でいいのだが軽すぎてどこに飛んでいくかわからない風船のようなもので、時にはしぼんで埋没することも少なくない。完全にしぼむ可能性を持っているから神は絶えず息を送ってくださっているから生き延びている。私の駄目さ加減と神の忍耐のせめぎ(愛)が日々の生活の営みである。

先日インターネットでこのような記事を目にする。
《[ロンドン 16日 ロイター] 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。16日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。


 ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。

 博士は21歳の時に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という進行性の神経疾患と診断され、余命数年とされた。「自分は過去49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだまだやりたいことがある」と語った。

 また、人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」と答えた。》

脳をコンピューター(物)に置き換えているのが面白いと思った。学問の世界は分からないし、レクチャーされても理解できないだろう。博士の学問的なものからきているのか、ALSという病気も影響あるのか分からないが、発病して30年近く生きているということは驚異である。人間を物質と捉える捉え方をするのにそれなりの意味があるのだろうからそのことに対して一つの意見として見れる。

しかしどこか寂しさを感じる。これを読んですぐ思ったことは、ミレーの「晩鐘」である。農業をやっていた親や大人たちを見ていて、自然に対する畏敬の念、あるいは畏敬でとどまらずに拝む対称になる嫌いもないでもない。都会のように金を出せば全てがすむ世界ではなく、自然が主体のようなものである。夫婦が一日を無事に終えて、神に感謝する姿は良く分かる。神概念がなくても自然の相手に生きていたらあのようになるのではないだろうか。そして一年の収穫の実を手にして生まれる感謝に誰もが共感するだろう。自然との共生の中に感謝が生まれる。全てが物のように理解したら、利己的で打算的なものしか生まれないだろうか。感動なんかできないのではないだろうか。創造主なる神などと言わなくても、畏敬という言葉は日々経験したいものである。