2011年5月30日月曜日

シニアキャンプ

軽井沢にあるシニア対象のバイブルキャンプに25、26日と家内と朝から参加する。春と秋に2回行われているが私たちは春か秋かのどちらかに参加している。
シニア対照だから全てがゆっくりしている。お陰で何となく落ち着くというかフイットするからどこかホッとする。最初はそうではなかったがその分年取ったということなのか。朝の集会で隣の席に座っている群馬のS兄は大きい聖書を使っていた。最近は老眼が進んで、普通版の聖書だと少し読みづらいがまだ大判には抵抗がある。前に座っていた老姉は88歳で髪は黒く、聖書は小型版をメガネ無しで読んでいる。驚きであり、内心面白くない。彼女は前にいた集会の姉妹で、お父さんは無教会の伝道者、小さい時に亡くなられて、その親友だった矢内原忠雄がお父さん代わりとか、お姉さんは息子の伊作氏と結婚したと聞いている。

今回は伝道者のN兄が話され、シニアに合わせたのかさらにゆっくりと色々な話題を織り込んで話されて、分かりやすくてよかった。、自分でも言っていたがよく脱線するから時間オーバーになる。今回も然りだが大分気にされていたようでそれ程でもなかったようだ。最近でもないがメッセージを聞いても言われる後から忘れていく、メモを取ったりするが断片的であり、正確に取れない。脳の記憶装置が壊れたのか記憶するということが限りなくゼロに近づいている。メモを見たり、再び聞けば思い出すがきれいに忘れていく、それは見事なものである。まるっきり駄目かというとそうでもなく、ある部分が駄目なようで、どうもどうでもいいことは覚えていて、肝心なのが記憶されない。老いとは、その辺を当然のように笑って過ごせるということだと思っているからあまり深刻になっていない。悪く言えばいい加減なのである。

数人で歓談の時、忘れっぽくなった覚えられないと話題になった。今度バプテスマを受けるK兄なんかは人の名前を覚えようとしない。自分より上手がいるとどこか安心しながら、「覚えないのでなく覚えられないのだ」と内心思っている。それでつい言ってしまったが彼は鋭いところがあって、割と肝心なことは覚えていている。どちらかというと私とは逆の傾向にある。集会で気になることを話してくれたが角を立たないようにものごとを改善していくようである。私は気がつかないだろうし気がついても行動力はない。それと垣根が低いから人が接しやすいようで、彼も声をかけるが誰もがKさんKさんと声をかけてくる。私はその辺は努力が必要だ。

今回は、久し振りの人に何人か会う。常連が多い中、これもうれしい一つである。隣に座った方と集会の後話しをしたら倉敷集会からご夫婦で来られたとのこと、住まいは玉野市、わが町と姉妹都市、私より良く知っていた。こういう驚きもある。よく集っていたが挨拶くらいで終わっていたO兄と少し話すことができた。ある集会を出られた方で昔から名前を知っていたがお話しをするのは初めてである。大学の先生をやっていて、今はリタイアされている。どこか発想が違うようで、尚且つ厳しいと思った。パウロの視点で見ているのかな、私はペテロ的であると言った。優秀な学生相手培ったものがあるでしょうが私は自分もそうだからどちらかというと落ちこぼれに目が行くようなことを言った。自分と違う視点を持っている人の話を聞けることは感謝だ。聞きながら正統かな、私なんかは妥協の産物かもしれないと思った。しかし、もっと崩したいと思っていることもある。イエスさまが「食いしんぼうの大酒飲み」
と言われていることが好きである。
もう一つの楽しみ、それはG兄が学んだ黙示録のCDをいただけることである。22枚、早速一枚を聞く、細かいところまで良く調べている流石である。これで黙示録の通になれるか、はたまた頭に入れたものがバクに食われていくかこれも楽しみでもある。PCに入れるがそのCDごとに入らず整理するのに骨折った。何とか整理できてホッとしている。少しづつ聞いていこう。中川さんのもあるし、楽しみが増えた。