2011年6月1日水曜日

あるブログから

―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰―
           巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

「「現代大衆的福音理解」に対する問題提起、検証」の副題?で講演の資料が載っていた(http://cwn.way-nifty.com/cwn/2011/05/nt-579c.html)。小嶋牧師の「大和郷にある教会」というブログを「お気に入り」に入れて時折読んでいる。私には難しいが何か示唆するものがある。このことも然りかな。

まず現代福音派の「福音」、「救い」の理解はどんなものかと、日曜学校の教材を通して論評し、「罪の罰から救われる方法を語る」にほぼ等しいと書いている。

次に「神学的説明」を「聖書」と「実際の歴史」に照らして、六つのポイントを挙げている。
 ①イエスの十字架刑は私たちの受けるべき罪の罰を表しているか。
 ②イエスの死が私たちの受けるべき罪の罰の代償であるとする「刑罰代償死説」
   は十字架刑を必須とするか。宣教途中で祭司長たちの反感を買い、彼らに殺
   されたら「救い」は成立しなかったか。
 ③ローマに対する反逆罪として用いられた十字架刑が私たちの贖罪のために
   必須であったなら、なぜイエスは即「メシヤ宣言」して暴動を起こし、ローマに
   捉えられて十字架刑にならなかったのか。
 ④十字架の死までの「イエスの生」は、罪を犯さないことだけに意義があったの
   か。
 ⑤十字架の死だけが救いのために意味があるのなら、「神の国」宣教-病人の
   癒し、悪霊の追い出し、神の国の教えを説く-の意味は何か。
 ⑥なぜイエスはユダヤ人として生まれる必要があったのか。イスラエル民族の歴
   史に何の意味があるのか。神の御子は時代・文化に関係なく降臨し一直線に 
   死なれて贖いは完成したのか。
上記のような問いかけの下に「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」を、実際の歴史と福音書の記述とつき合わせてみると、その非歴史性、抽象的な性格が浮き彫りになってくると言えるのではないか。

・ 当時のユダヤ人にとって十字架にかけられたメシヤは失敗の証左である。イエスの死後、弟子たちのメシヤ運動が持っていた選択肢は、①解散するか、②イエスに変わる別のメシヤ(最も可能性の高いのはイエスの兄弟ヤコブ)を立てるしかなかった、と推論できる。
・ イエスの復活は、当時のユダヤ人(弟子たち)が実際に信じることは困難であった。「死者からの復活」はユダヤ人一般の信仰であったが、それは終末的な出来事で、神にある義人が一斉に復活して『来るべき世のいのち』に与るというものであった。福音書のイエスの復活描写は、その意味で弟子たちの戸惑いや不信仰の姿をそのままにしている。又十字架の出来事に比較して、復活記事には旧約聖書預言成就の言及や暗示が殆ど見当たらない。
・ 使徒たちのメシヤ信仰は復活の事実から遡って(旧約)聖書の記述に照合して「イエス(預言者メシヤ)の言動/行動」を検証した結果辿り得たもの、と捉えられる。
と三つの点を挙げている。

「福音を語る」とは何か。使徒的福音説教(ケーリュグマ)を検証する。
・Ⅰコリント15章…復活顕現と目撃者証言の中核性
・ 使徒の働き2章…イエスの死は「刑罰代償死」としてではなく、ユダヤ人指導者の罪として糾弾されている。
・ 福音書、「最後の晩餐」箇所…イエスの死の意義は「新しい契約(新しい『出エジプト』的出来事)」の基礎であり、それを発効させるもの(過越しの犠牲)として位置づけられている。
・ 福音書におけるイエスの十字架刑の記述には「刑罰代償死説」のような説明はなされていない。
・ ガラテヤ書簡…十字架はイスラエルを代表するメシヤが被った「契約の呪い」(3:13、比、申命記28章)であり、「真の捕囚からの帰還」(1:4、比、申命記30章)である。

「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は使徒的福音の視点から見る、福音の提示ではなくその結果得られる恩恵の実を表している。福音とは「イエスはメシヤ(真のユダヤ人の王)またすべてのものの主」であることを宣言することである。この福音の宣言を聞いて信じ従う者が「神の民」に加えられ(義認)、救いを受けるのである。


上記のように細かく考えたことはないが問われていることを考えれば確かにと思う。以前から思っていたことは、滅びからの救い、罪からの救いを強調するとイエス・キリストの十字架は単なる「刑罰代償」になってしまう恐れがないか。語り手がその意図がなくても受け手はそのように受け取ってしまわないだろうか。そうなるとイエス・キリストとの人格的?な結びつきが希薄になり、信仰がご利益的になる可能性がある。福音はその人を変える力があるがそれを希薄にしてしまう恐れがないか、「私」の主権の行使はあっても、「主」に従うという「主の主権」の行使は希薄にならないだろうか。自分もそのような経験の中にあるからいつも念頭にある。

イエス・キリストは公生涯の第一声が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の国の到来を告げ、「初めに、神が天と地を創造した」し、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」と新しい天と地を約束している。そんなことを思いながら福音(よき知らせ)を思い巡らしている。