2011年6月2日木曜日

飼いならされて?

私は社会の底辺に生きている者であるからその視点でしかものが見えない。政治に関わるの選挙の時のみ、経済は無縁の世界。キリスト教も単純な信仰、神学のシの字も縁が無い。聖書のことばをそのまま受け取っているだけである。言うなれば、小鳥の雛がくちばしを開けて親鳥のえさを受け取るだけのようなものである。雛は親鳥に信頼をおいているから、ただ口をあけていればいい。そうすれば生きていけるのである。しかし人間の場合には、時にはおいしいといって毒を食べさせる。雛は思考力ゼロだと思って、偽りをあたかも真実のようにして安心させる。ところが原発のように自らボロをそれもボロボロと出してくる。怒る前にあきれてしまう。そしてそんなことまでして短い人生なのに、と同情してしまう。それで彼等の努力に答えるように、文句も言わず黙々とおいしそうに毒を含んだものを食べる。これが底辺で生きる者の術である。

人はバベルの塔の出来事のように一つになろうとする。「みんなひとつになろうよ」と今コマーシャルで流れているがまさにそうだと思う。しかし、そう叫ばれている時は少数者や弱者が置き去りにされる。政治や行政は二つの目を持たないといけないと思う。ひとつになろうとする目とそこからこぼれる者に対する目をそれが血の通った政治であり、行政であると思う。

今の日本を見ているとバベルの時代であり、ノアの洪水の時代でもあるような気がする。時代を見る目は、今を見、未来を見る目が必要だ。イエス・キリストは世の中を変える改革ではなく、聖霊によって、弟子たちを変え、人々を変えて自己改革をなし、そして世の中を変えていく。人は自分を生かすのではなく、他者を生かすのである。キリスト者はそれができるのである。