2011年6月8日水曜日

ただ書くだけ


こちらに来てから朝に日記を書いている。発端は、子供が使わない大学ノートがかなりあり、どうせ使わないだろうとこちらに持って来た。日記は夜は夜中まで起きてぎりぎり何かをしているから書くのは駄目なので朝に書くようにしている。朝は聖書を読んだり、祈ったりする時間があるのでその間に書いている。前日のことを書くからリハビリにもいい、最近は思い出すことが少なくなったなぁと感じている。それといつもではないが、テープを聞いたり、本を読んだりしたときに要約を書いている。断片的で要約にはなっていないが、聞いたり読んだりしただけだとすぐ忘れてしまうからこれもリハビリである。もう一つパソコンのブラインドタッチの練習にもなる。最近千鳥足のような指の動きが少なくなった。しかし数字や周辺は眼で追わないとだめだがこれは無理のようだ。

ブログを書いているのも全く同じ、何かを発信しようなどとは思っていない。それでも誰かが読んでいると思うと少しその辺は意識する。誰にも教えず。聞かれても教えず。言うなれば、家の片隅で、誰にも分からないように、こっそりお菓子を食べている構図であるが、ブログは家がガラス張りのようなもの見ようと思えば見えてしまう。それと文章を書くのは頭の中で色々考えるから考える人ではないのでこれにもいいかなと思っている。知っている方のブログを見ていると中々しゃれているし、そうでなければ中身がいい。独り言くらいはいいが、独りよがりになりやすいのでそんな矯正も兼ねているのかなと、なっているかどうか分からないが。ブログ本来の意味がなくて、わが身の諸々のための発信である。

ただ書くだけであるが意図してそうしているわけでもない。実はコメントが書けない。唯一書けるのは、一つだけである。偶々別なことで登録していたヤフーのブログでコメントが書けるスペースがあって、ただ書くだけでよかったから書けただけである。お陰様で今もコメントをたまに書かせてもらっている。また交流もいただいている。そんなわけだから自分のところに来るのもただ読むだけでそのまんまになっている。だから気がつくのも遅い、スパムというところに入って、気がつかなかった。偶々クリックしたら一件あった。2月で文面を見るとどうもヒソプさんのようだ。すみません。分かってやっているのではなく偶々クリックしたらそうなったというとてつもなく覚束ないのである。

最近、いつもアクセスしているブログで、共感を持った文書があったので、そのまま載せて、少しコメントを書いたら、その方から直接コメントをいただていた。どうして分かったのだろうかと思うが名前を入れて検索すれば分かるのかなと、これからはもろではなくブログ名だけに留めようと反省している。メールの返信のように文を見ながら書くと書き易いのでつい、小嶋牧師失礼しました。実はこのブログ、地名になっているのでどこだろうと興味を持ってアクセスした。以前仕事で都内近辺を車で動いていたので、地図を見るまでもなくあの辺かと思わされることがある。こちらもそうで、ただそれだけで何となく懐かしさを覚えた。難しいことを書かれているが分からないなりに何となく興味をを抱かせる。教会員にはしたくないようなキリスト者だがインターネットのつながり位ならゆるしてくださるだろうとアクセスしている。