2011年6月9日木曜日

曖昧を旨とする日本人

旧約聖書を読むと、イスラエルの国がダビデ、ソロモンと続いた王国がついに滅んでバビロンに捕囚となっていく様をみると、典型的な内部から壊れていく国の姿を見ることができる。よく言われる国が滅びるのは外敵からではなく内部からと言われることがここでも示されている。

津波、原発に端を発した諸々の現象は今日の日本の姿を映し出しているようだ。被災された方々の頑張りや忍耐が映像から伝わってくるが国は何をとの思いがしてしまう。現場サイドではそれなりに一生懸命やっているのだろうが被災民にどれだけ伝わっているのか疑問である。顔が見えないとはこういうことを言うのだろうか。

原発の事故での避難は割と早くやったのを見て、これは大変なことかなと思ったが事実だった。しかし後になれば分かることを伏せていると言うのは、被災民を馬鹿にしていると言うか、愚弄しているようにしか見えない。パニックにならないようにとの善意かもしれないが国民をその程度にしか見ていないと言うことだ。お上意識そのものであり、上意下達思考である。その思考が太平洋戦争の悲惨な結果になったのであるとわたしは思っている。人々もそれに慣らされているような気がする。

ウェキペディアこんなのが載っていた。
「この言葉はリンカーンのオリジナルではない。今知られている一番古いものはジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年)が聖書を英訳した著作の序言に"This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people"(「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」)とあるのに始まる。」

主権在民ということばがある。皮肉的に言えば選挙の時だけ、後は主権は我にあらずである。大阪の橋本知事は「、「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」と話した。」(msn産経)

決めたことは守らなければならないが思想信条に優先されるべきものではないと思うが、ましてや教職という仕事はわたしの年代では「聖職」意識があるから一般の公務員と一緒にすべきではないと思っている。現代の教員は単なる一つの職業として捉えているなら別だが、それと大阪府の教職員の現状が酷いのか?教育現場がそうかどうか分からないが、今日色々な意味で「時代の転換点」に立っていることは間違いないようだ。ただ良い方向に行かないのが今までの姿ではないだろうか。