2011年6月24日金曜日

二つの見方

ブログで原発や民主党のことなどを読んでいると、見方や関心のもち方が色々あるなぁと感心する。自分がノンポリ的人間だから、原発廃止を唱えている人たちの見識の高さに敬服している。そんな中でフッと思ったことがある。

昔読んだソルジェニーツインの「収容所群島」と、最近でもないが読んだV・E・フランクルの「夜と霧」の違いである。同じように理不尽といえる中で収容所に入れられている。その収容所での生き方というか見方が全然違うような気がする。両方とも収容所の中の出来事が書かれているが「群島…」が体制派を批判している姿が良く分かる。読者もそのことに異論を唱えることはないであろうと思う。しかし、「夜と霧」はナチスに対する批判はない。「心理学者、強制収容所を体験する」が本題だそうだから、まさに体験記として読むとそこでどう生きるかが着目点にしているのかもしれない。

記憶が間違っていなければ、収容所で家族が殺されているはずだ。そのことに対しても何の批判もなかったように思う。体制を批判する時には見識と勇気を持たないといけないがそこまでで、フランクルは、収容所という中で、収容者は勿論、管理する側も「生きる」ということでは必死であり、そこは同じであることを語っているようでる。不当な扱いを受けながらも同情しているようにも感じた。ものごとを冷静に見ていて、いかに劣悪な状況の中で生きていくか、人間としての尊厳を失わずに生きる生き方は崇高である。

極限の状態の中で、人間の本性を教えている。「人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ、人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」。死を乗り越えた存在を知っているような発言だ。