2011年7月16日土曜日

信仰・希望・愛

知人に子供さんの名前を「信」、「望」、「愛」とつけている方がいる。別に計算したわけでもないだろうが男、男、女だからうまくつけられたと感心している。そして親の信仰の姿勢が窺える。わたしは?三人とも社会人で結婚されて、集会にも集い、しっかりやっている。わが息子たちと同じ年代で、うちの上の子とは互いに良く知っているのだろうと思うが「この違いは何だ!親だ」といつも思っている余り反省はないが。

先日、その真ん中の子が、毎月来てくださるM 伝道者ファミリーとご夫婦で来てくださった。小金井に住んでいて、ダイエットのために自転車通勤とか、勤務地が三鷹だから30分くらいと言っていた。どちらかというと痩せているのに感心するというか、証の中でも言っていたが「自分は理系」での言葉の中にそれなりの拘りがあるのを感じた。東京では挨拶くらいでほとんど会話らしきものがなかったし、奥さんはさらにである。こちらではゆっくり話が出来、証しもしてくれるからさらに持っているものが分かるからうれしい。初めての話のようでお世辞にもうまいとは言えないが言わんとしていることが伝わってくる。理系と言われるように、他の人とまた違った視点を持っているのかなと思わされた。
訓練し、磨けば光る器である。大勢のいる所でそんなチャンスはあるのかなぁ。小さい集会で磨いて欲しい。今はメーカーが新しく出す車の審査をしているとか、公務員だから転勤は付きもの、どうなるか。これからが楽しみでもある。

書き出しでこんなことを書いてしまった。本当は「信仰・希望・愛」を書こうと思ったのである。聖書の中にも出てくるし、クリスチャンの中ではよく使われるからキリスト教用語のように思われているのかなぁと思っている。しかし考えてみればこの言葉は普遍的な言葉である。

生きていくには、意識するしないは別にして、信仰がなければならないし、希望がなければならない。そして愛するものがないと、この一つでも欠けたら生きていけない。みんな何らかの形で持っているから生きている。無かったら絶望するしかない。

聖書のことばは、普段それ程意識していないが考えてみればすごいなぁと思う時がある。この言葉なんかそのひとつである。「いつまでも必要なもの、そしてその中で最も大いなるものは何んであるか」を知ることができる。愛というのもこれがないと光のない闇の世界で生きているのようなものだから全く希望がない。生きるとは、何かを信じ、何かに望みを託し、何かを愛している。その何かが問題なのであるが。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(john:14: 1)。この言葉は分かっていても、心騒がし、信仰はどこに、希望はどこに、愛は手持ちが無いからイエス様から頂かないといけないのに遠慮深いから今は手元にないのが現実である。どういう形にしろ、信仰・希望・愛がなければ生きていけないが、「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち」(luke:12:28)のひとりである。真の信仰・希望・愛はとても難しいなぁと思っている。